室内人類学

犬歯の短小化が起きていない=人類ではない

穴を埋める女

 meeさんのお誕生日のお祝いに書かせていただきました。お祝いかこれが。

 

    *

 

 

 ここはゴミ箱なんだね。とあなたが言った。
 庭に大きな穴をくつろげて、私はそこにいらない原稿用紙をばら撒いた。そうかもしれない。そんな気がしてきた。
 私が穴に落としたのは夢だ。小説家になるために生まれてきたような気がしていたけれど、そんなことはなかったから捨てた。誰かの心を揺らしたり、奮起させたり、悦ばせたりする言葉の魔法は、大人には効かないことをずっと黙っていてごめん。大人の心は硬いから、指なんてか細い攻撃は弾かれてしまうんだよ。
 文字をいくら書いてもあなたを救えそうにないので、私はこれを捨てた。朝のいってきますのメモみたいに、既読のつかない晩御飯の写メみたいに、文字って馬鹿みたいね。何も伝わらないから。なにも信じてないつもりだったのに、私は愛と言葉っていうくだらない宗教をずっと信じ続けていた。もうずっと、休まず十字架を背負っていた気がする。その重たい荷物をおろしたら、なんだか少し気が楽になった。あなたは曖昧に笑っていた。お腹はぽこぽこと鳴った。

 

 次の月に私は、穴の中へ蒐集品を捨てた。これが想像以上に多く、日曜の度にスコップを持ち出す羽目になった。木の根を掘り返したりして立派に広がった穴たちに満足すると、これはとっておこうかなと思っていた品物まで捨てたくなってくる。本棚をひっくり返して、何度も読み返した本を捨てた。もうすぐ訪れるクリスマスの━━もう連絡先も知らない、友達でもない━━友達にもらったオーナメントを捨てた。ついでに、父から譲り受けた机や、妹に押し付けられたコーヒーミルも捨てた。アルバムも、手作りのアクセサリーも、弾きもしないのに買った楽器も、なにもかもを捨てた。
 部屋も、心も、隙間を開けないと対抗できなかった。それだけ押しつぶしてくる圧力に負けそうだった。あなたはその時も、無理してはいけないよなんて、とてもきれいに笑った。

 

 ツリーのないクリスマスは久しぶりだった。クリスマスプレゼントは与えてくれるものだと思っていたけれど、大人になると贈る側になる。考えて見れば当たり前の話だ。
 私は書斎だった場所に横になっている。彼の買ってくれた大きなベッドに寝転んでいる。捨てた本の代わりにと、彼の両親がクリスマスプレゼントにくれた本を並べて写真を撮るのに疲れてしまった。もう少ししたら小さなベッドも届く。晩御飯は作らなくてもいいよ、とメッセージが届いたけれど、私は返事をしなかった。昨日はそんなメッセージなかったから、あなたの食べなかった晩御飯を、私は庭の穴に捨てました。

 

 あなたに、穴って形も深さも一つとして同じものはないのだと、ご両親は教えなかった。そういう場合は、きっと私が一時ママになって教えなくてはいけなかった。庭に掘ったあの穴たちがどれも別々のものを入れるために掘ったように、どれも違うものなのだと教えてくれる人がいたら良かったね。地面もそう。地面にとったらそこにあるべきは土や虫や花だったものだから、ゴミなんて入れられても困っている。そんなこと、わかるわけないか。
 私のお腹だって、美味しいお魚や香りのいいワインが入るためにあるのに、どうしてこの子が入っているのか不思議がっている。そう言うとあなたは大げさに笑った。そこは元から、子供が入るところだよ、って。
 前の奥さんは違ったでしょ、と喉まで出かけた。彼は子供が大好きだった。自分の両親が手に入れられなかったからなのか、血は繋がらずともそれを受け継いだらしかった。子供が欲しくて欲しくて、そういう寂しい穴を似たようなものが埋めてくれはしないかと願っているみたいだった。だから*機能*のある私に縋っているのだ。
 彼のご両親も、私の赤ちゃんでその穴が埋まると信じているらしかった。神様はいないってこと、願う様に信じてはいけないこと、私は何度か書いたけど、まあ読んでいないからわからないのも仕方ない。
 ねえ。要するにだから、この部屋だって活字と紙と、パソコンと、私が文章を書くためにあったんだよ。それ以外のものを置いたら困ると思う。ここからは庭の穴がよく見えるから━━多分、ベビーベットとか、ぺっと吐き出してしまうんじゃないかな。

 

 これでわかったでしょ、と私は娘を抱きかかえながら思った。彼のご両親は泣きじゃくる頃の彼と出会ったことがないから、*無理*みたいだった。彼も優雅に微笑むことしか得意じゃないから、赤ん坊の吐き戻しにつられてトイレに駆け込んで行って、そのままぐったりして眠ってしまうことが殆どだった。
 たまにはゆっくり君のご飯が食べたいな、と居酒屋から帰ってきたあなたが言った。さて、たまにはって何年ぶりを言うのか私にはわからない。付き合いたての頃くらいからだから、二年──、明日で三年になるのか。
「穴ならあるよ」
「穴なんて食べられないよ。君までおかしくなるのはやめてくれ。ただでさえ、子供が狂ったみたいに泣いているのに」
「子供はこれで正常なの。泣いてない方が怖いんだよ。そうじゃなくて、手間暇かけたご飯を私が作るなら、××を庭の穴に捨てるしかないと言ったの」
「なんてことを言うんだ! 明日からは僕が食事を用意するから、どうか、弱気にならないでくれ」
 あなたは美しい瞳から、はらはらと涙を零した。その涙も後で拾って捨てておかないと大変だって、教えてあげるべきかもしれない。
 彼は毎日コンビニでパンをひとつ買ってきた。私の分を、ひとつ。眠った娘の頭を泣き笑いのような表情で撫でて、そのひんやりした手に娘がぐずると、まるで大罪人みたいに逃げ出していく。
 この人は*もうだめ*だ。この人は穴ぼこだらけで、もう、自分の栄養を保っていられない。その穴は私では埋まらないから。すやすやと眠るだけのほっぺの柔らかい赤ん坊でしか満たせなかったから。そんなものはおとぎ話だったから。だからもう、どんな言葉でも救えない。

 

 悲しい穴を埋めるのは不可能だ。手に入れられなかったものや、失ったものは戻らない。タイムスリップができないから、まったく同じ時間は訪れない。
 あの友達ともう一度友達になることはできない。死んだ人は黄泉帰らないし、若い美しさも取り戻せない。愛してほしかった朝も、慰めて欲しかった昼も、大笑いしたかった夜も、もうどこにもない。誰にでも優しくしたいのに日に日に嫌味っぽくなって、大事なものを守ろうとする時はみんなが敵に見えてくる。
 でも、時間に逆らえないから、私たち大人をやるしかないんだよ。与える年になったら、今度はなにもできない老人になるまで、受け取るだけの人には戻れないんだよ。小説を書きたいのに、いくらだって書きたいことがあったはずなのに、書きたいものがわからなくなる。なんでも自分よりうまい子がどんどん出てくる。それらが私を書けなくしたんじゃない。私を忙しくした私が、身体中に穴を開けて、言葉が零れ落ちていくように工夫していたんだ。

 

 だから私たちが生きていくには、体積を増やすには、穴はもうどうしようもない。喪った肉の分だけの突起を増やしていくしかない。力を込めて、血液の中からアンテナを出して、*あったはず*なんていう幻想から電波を逸らして、他の、もっと別のものをキャッチするしかない。
 例えば知らない人に向かって書き続けていた言葉を、家族に向けていくとか。例えば彼の何倍もの愛情を娘に注いで補うとか。例えば、がなかなか出てこない。道理で売れないわけだ。逆に、穴でパズルをしていけないことはいくらでもわかるのに。
 例えば、かわいいドレスを着れなかったからと娘に着せたり。例えば、運動会のお弁当にフルーツが欲しかったから、娘のお弁当には毎日入れてあげようとか。家のことで友達と遊ぶ時間が少なかったから、娘にはなにもさせないとか。
 例えば、こんな女になって欲しくないから本に触れさせないとか。彼のようにきれいなだけの人を捕まえては苦労するから、男って生き物について、偏った教育をするとか。
 そういうことでは私の穴は塞がらなくて、娘の身体を蜂の巣にするだけで。
 例えば、殆ど顔を合わせなくても十年保てばマシなほうで。
 例えば開いた口は塞がらなくて。
 例えば、庭の穴にすっぽり埋まってしまったり、して。

 

「ママ。パパがおっきなゴミ箱で寝てるんだけどお」
 夕食の支度をしようと、帰宅してそのままキッチンに向かった私を、娘が子供部屋から呼ぶ声がする。そこからは*庭の穴*がよく見えるから、彼女はおっきなゴミ箱を指さして、私を振り返る。
 今朝は出社して行ったはずだった。私が学校までこの子を送って、パートに行って、買い物をしてお迎えに行って帰ってくるまでの間に、あの人は帰宅していたらしかった。
 私の美しい人は冬晴れの空の下で大穴の中に寝転んでいる。まるで、私にとって彼がまっさきに捨てるべきものであったかのように。自分の子供が、思い描いたように愛おしいものではなかったという絶望ごと、世の中を捨ててしまったように。すっきりした顔の彼を見せるのが憚られて、私は娘をやんわりと諭した。そして、彼の横に捨ててあった未完成原稿やアイデアノートを拾い上げた。

 

 彼が私たちに大きな穴を残してからも、私たちは変わらず同じ家に暮らしている。ぽっかりと穴の開いた彼の自室は娘の部屋になり、子供部屋は私の書斎に逆戻りした。自分で書いたものを否定するようで癪だが、部屋だけは失った家具を取り戻せるらしい。捨てる神も拾う神も自分だなんて、馬鹿げた話だ。
 家計の穴は、私が必死になって、なんでもやって埋めている。娘の心は、とりあえずは今のところ油彩画が埋めているらしい。形のまるで違う穴にねじ込むようにして、絵を描くことに打ち込んでいる。彼のご両親とはまるきり連絡が取れていない。私の両親は、随分と昔に地元の穴の中だ。

 

 私はつまらないホラ話や、炎上マーケティングなどを手伝って彼女を育てている。大人の心は動かないなんて言ったけれど、あれもまるきり嘘だ。
 大人は怒る時、笑う時や悲しい時の何倍も簡単に心を動かす。呆れたことも、哀しいことも、苦しいこと辛いこと、全部を怒りにひっぱられてしまうところがあると、知っていた。美しい言葉を並べるよりも、垂らした針に引っかけて傷つける方がよっぽど楽だ。
 楽だから、やりたくなかった。言葉と愛を信じていたから。
 それでも今は、何よりも安っぽいものが一番大切なんです。くだらない三文小説が、はした金が大切なんです。これしか武器のない私は、この包丁一つで世間のあらゆることから、娘を守らなければならないんです。
 そう言ったらあなたは怒るかな。私の文章を褒めてくれた、好きだと言ってくれたあなたは。昔、一緒に同人誌を出したこと、夢みたいに嬉しかった。そのことだけは、きっと穴ぼこにはならないと思います。昔みたいに、ボツにしているネタなんて、もったいなくてありません。なにも捨てられず、動けずにいます。
 それらの素敵な、輝かしい思い出すら、千円に満たない文章にしていることを知って、あなたは溜息をつくかもしれません。それでも、こうしてお話にさせて頂いています。ありがとう。ごめんなさい。
 穴埋めのページをいただいて、そんな話をここに書かせていただいています。

 

                          マルヤロクセイ

 

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