まっしろ雪と奇跡の夜
「種も仕掛けもございません」
ワン・ツー・スリー。
あれは、一晩中雪が降っていた次の日のことだった。その日の明け方、屋根の上から時折ぼっ、と音を立てて塊が落ちると、それに合わせて猫のロートが尻尾を揺らしていた。
ロートは赤毛に緑の目のそれはそれはかわいい子猫で、人懐こくて甘えん坊だった。彼を五歳の誕生日にもらってから、僕は毎日可愛がり、ちゃんとお世話もして、とてもだいじにしていた。
その日は十二月も始まったばかりで、僕は朝から大忙しだった。お昼には庭に穴を掘り終わって、たくさんお花を摘み終わった。ロートがお気に入りだった薪ストーブのある部屋はとくに大変で、僕は慣れない掃除道具を使って、壁の絵画の額縁や、ネックレスや指輪や、アンティークのクローゼットやらを綺麗にしなくちゃいけなかった。広い床だって埃一つないように磨き上げた。明日も朝から大雪が降るというから、夜になる前に屋根の雪を全部おろさなくちゃいけない。
大変だったけど、仕方がなかった。僕は今やこの家の主で、全部一人でやるって決めたのだから。
「これは失敬」
だから、突然窓が開いて土足で大人が入ってきたのには本当に驚いた。彼は大きな背丈を折るように丸めるとゆっくりと靴を脱いで、自分が足跡をつけた床を綺麗に拭きなおして、それからこう言った。
「レディス・エン・ジェントルメン。世紀の奇術師、グレイ・サタン・クローズのマジックショーへようこそ」
「もともとママはいないんだ」
「あらそう。じゃあリトルボーイ・エン・ジェントルメン」
「パパも今はいない」
「ボーイ・エン・ネコチャン」
「ロートはパパより先にいないよ」
「君こまかいね」
ステッキを床について、窓からの侵入者は無表情のまま、無感動な声で、ぺたんこの白い袋をいじり始めた。僕はそれを見上げて、あわてんぼうのサンタクロースの歌を思い出していた。真っ白いお髭のおじいさんが、真っ赤なマントを着て、だいたい似たような名前をして、急に現れたから。
おじいさんは僕にねだられて、結局それから一時間、僕に魔法みたいな奇跡のショーを見せてくれた。彼は掛け声と共にシルクハットをくるりと回し、鳩を飛ばしたり、鳩を並ばせたり、鳩を歌わせたり、そこにあったものを消したりしてみせた。
「じゃあそろそろ世紀の奇術師は帰るけど、ついでだからコレも持っていくね」
おじいさんは床の青いシートの上を指さした。
「もっと消してもいいのに」
「世紀の奇術師おじいちゃんだから、もう持てないかな」
そうそう、あの日は窓枠がガタガタと鳴る風の強い日だった。だから、こんなに派手なおじいさんが来たことに僕はまったく気づかなかった。
あかぎれだらけの冷たくなった僕の手に、最後におじいさんはあったかいミルクココアを包ませて、それでショーはおしまいみたいだった。
ぼくは感動で胸がいっぱいになった。なんて素敵なんだろう! サンタがきたのは初めてだった。ぱんぱんになった大きな袋を担いで、おじいさんは振り返る。
「警察に電話しなね」
彼の真っ赤なマントの裾を掴んで、ぼくは手を広げた。これって裏地は白いんだな、なんて思いながら。
「サンタさん、ぼくを弟子にしてください」
「わ、へんな子」
おじいさんはぼくを抱き上げて、窓から差し込む夕日に照らして、そうして薄く微笑んだ。目は死んでいた。
「わ、あれっ!?」
「君、おおざっぱだね」
ぼくがシルクハットからばら撒いた鳩たちを、師匠はそう言いながらステッキで床を叩いて整列させる。
「リトルくん。君、動物に舐められてるよね」
「なんでですかね」
「動物は人間と違って、慣れるからね。体の大きさとか顔の怖さには」
「怖くないですよ僕、師匠ほど目も真っ暗じゃないですし」
「私の目ってそんなに死んでるの」
師匠はふさふさの髭を撫でて、あの頃と同じ無感動な目で僕を見た。
あれから十年経って、僕は師匠と同じくらいに大きな体になった。お手製の滋養料理を毎日食べていたのだから当然かもしれない。さすがに僕はあの日、師匠がどうして僕の家に来たのかなんとなくわかっていた。それでも、今さら弟子をやめようだなんて思わなかった。
明日は僕のはじめてのマジックショーだというのに、僕はまだまだアシスタントの腕前といったところだ。できることと言えばあの頃と変わらず、洗濯と掃除、荷物運び、あとは鹿や熊の解体くらい。
「困ったな。どうしましょう」
「まあ、どうにかなるよ。最後には度胸と腕っぷしがものを言うから」
「言うかなあ」
僕は自分の上腕を見つめてみた。何も言わなかった。
雪が降っていた。冷たい吹雪の中を歩くのに、なるほど師匠のくれたマントは役に立つ。僕は車で待つ師匠に「マジックは度胸。そして君はそれを、初めて会ったその日からずっと持ってるよ」と励まされて、もこもこに膨らんだ鳩たちで暖を取りながら夜道を歩いた。
どの家も、窓から見る明かりにクリスマス・オーナメントが見える。家族が団欒を楽しんでいて、二十五日を待ちわびていた。まだ十二月も始まったばかりなのに、ずいぶんと気がはやいことだ。僕はその中からランプの明かりが消えかかったひとつの家を、ようやく見つけた。
登場は窓から。子どもの目の前に。ちょっと恥ずかしいけど、口上はしっかりと。
「レディス・エン・ジェントルメン。世紀の奇術師、リトルグレイ・サタン・クローズのマジックショーへようこそ」
「でもおにいちゃん、身体がとってもおおきいわ」
「子どもってほんとにこまかいんだなあ」
ぼさぼさの赤毛をのばした少女が、月明かりを背にした僕を緑色の目でみあげる。つぎはぎの服は物語の中の怪物みたいで、だけど少しだけロートに似ていた。
「今宵のショーは、みなさまお待ちかね。奇跡の消失マジック。素敵な驚きをレディに」
「なんでも消せるのかしら?」
「もちろん」
「じゃあ……」
大きな音を立てて部屋の扉が開いた。観客の酒瓶をするりと避けて、シルクハットをくるりと回す。よし、完璧だ。あ、鳩が外に。でもハンカチはうまく使えたぞ。
飛び入りのお客さんが増えて、ナイフとフォークが部屋を踊る。僕はマジック七つ道具、ブルーシートを部屋に広げた。レディを抱き上げて窓枠に腰かけさせると、拳を握った。マジックには手の器用さが重要だと、僕は知っている。器用さというのは、多分拳の硬さのことを言うのだ。師匠もそうだし。
「さて、このマジック。種もしかけもございません。ワン、」
一人目。
「ツー、」
二人目。
「スリー!」
三人目。
パチパチパチ、と拍手が響く。僕は綺麗にお辞儀をして──ああ、最後に渡すココアがこぼれてしまっている。
「ごめん、実は僕まだ半人前で。プレゼントのココアが台無しだ」
「すごいすごい、あっという間だったわ」
僕が七つ道具のブルーシートを畳み、白い袋に荷物を詰めている間、少女はとてもはしゃいだ様子でこちらを見ていた。うーん、展開が読めたぞ。
「ねえ、サンタさんはこの後どこに行くのかしら」
「山だよ。雪が積もる前に戻らないと、今朝の苦労が水の泡だからね」
「わたしも連れていってくれる?」
「大丈夫かい? 怖い熊とか、怖い鹿とかが出るんだよ」
「平気よ。熊なんて怖くないわ。今までの方がずっと、怖かったもの」
「それはそうかもね。でも、熊もけっこう怖いもんだよ」
「平気だわ。だってサンタさんはとっても強いもの」
「てへへ」
僕はマントを裏返して少女を下に隠すと、大荷物で家を後にした。
「わ、増えてる」
裏路地まで駆けてくると、そこには白いアンティーク・カーが停まっていた。エンジンはかかっておらず、師匠は新聞と一緒に買ったココアで暖をとっていたみたいだった。
さっき逃げ出した鳩たちは、師匠の車の中でおとなしく待っていた。僕はトランクに荷物を詰めて、少女を後ろの席にやさしく降ろす。すると、師匠はぬるくなったココアを少女の両手に包ませた。
「そんな気がしたんだよね」
「ココアを零すことまでお見通しでしたか」
「君、おおざっぱだからね」
「ねえおじさま、私、はやく山に行ってみたいわ」
「そう。別に面白くないけどね」
ぼうん、と音を立ててエンジンがかかると車は走り出す。町には雪が降り始めた。今朝掘った穴が埋まらないといいけど。
弟子名をロート、と名付けられた少女が僕のベッドに飛び跳ねにきたのは翌朝のことだ。
「おにいちゃん、昨日のことが新聞にのってるわ」
「本当かい? 僕も有名になったもんだ」
あの日も、次の日に号外が出たのだった。見出しはたしか「怪盗赤マント、ついに一家全員ごと盗む」だったかな。僕の一世一代の大仕事はなかったことになり、世紀の大怪盗の盗難被害の一部になってしまったのだ。さてさて、つまり僕が新聞に載るのは初めてになるわけだけど。
「ええー……」
「見出しを当ててあげようか。“町に熊出没! 無残にのこされた被害者の足!”とかじゃない?」
「なんでわかるんですか」
「君、おおざっぱだからね」
「もっと細かく教えてくれませんか。なんで足置いてきちゃったんだろう」
「山の恵みをもらってるから、とかリトルくんよく言うでしょ」
「はい、言いますね。山は人間のものじゃないし、動物とは共存しないと」
「その動物用にって、解体した一部をそのまま残しておそなえするのが癖になってるからね、君」
「ああ……」
僕の初仕事は熊の仕業となってしまったようだ。ロートはくすくすと笑って僕の足に絡みついてきた。師匠のようになるのはまだまだ先みたいだけど、あの日失った家族が戻ってきたみたいで、僕はとても幸せな気分になった。