室内人類学

犬歯の短小化が起きていない=人類ではない

一白界談解説

 

 かなり前に半分くらい消えて放置していたものです。突貫で完成させました!


 放課後文殊クラブで発行された一白界談の自分のお話について語っていきます。

 ※様々なタブーをおかしています。あと作中で全然描写していない裏話とかもどんどんでてくるので、自己責任の上で閲覧してください。このブログ記事を読んだことによって不快な気分になる、などなどの様々な責任を当方は一切負いません。

 

 


 三:匣
 悟くんという、霊が見える眼鏡の少年が語り部です。このあとに出てくる「資料室の君よ」の胡散臭い退魔師こと縁霊寺のお弟子さんです。普段は学校生活の合間に悪霊を斬り倒したりしています。武器はお札の貼られた刀です。浪漫ですからね。そんなことはどうでもいいんですけど。
 彼は日常的に、所謂普通のおばけを相手にしています。彼の住む町は離島にあるのですが、とにかく幽霊が多く、呪われた町と呼ばれています。私は島という場所も立派な匣だと思っています。みなさんは、そうは思えませんか? それじゃあ匣ってなんでしょうというお話をしましょう。
 匣という字なのですが、物を納めておくもの、蓋のできるもの、という意味で存在している字ですね。私は家も学校も屋根があるので「蓋」があると思いますし、思い出も怒りも蓋ができので「匣に入ってる」んだろうなあと思います。感情が容器に入っているならば、それはきっと人体の中でしょう。頭蓋骨なんてちょうどいいですし、脳がその置き場に相応しいでしょうか。それとも肋骨が心臓に蓋をしているとすれば、そこに? いやいや、そんなことを言ったら大腿骨だって皮膚に覆われています。
 つまりは、中に何かを閉じ込めていられれば、それって匣と呼んでいいのではないでしょうか? というのが私の強引な考えです。ならばきっと、呪われた島とて匣と呼ぶには十分定義を満たしている。
 このお話を私の作品の中ではトップに持ってきてもらうようお願いしました。呪いは封印されているもの。閉じられているもの。本だって、閉じられています。それを開くのはあなたです。あなたの指先で、どこにあるかもわからない心で開くのです。というようなお話なので。
 お話の説明に戻りますと、このあとに出てくる「黒い先生」の黒い先生=割といいやつと有名なタイプ(自称)のニャルラトテプ(詳しくはクトゥルフ神話をご覧ください)もこの島に暮らしており、余計なお節介をしています。彼は「島渡り」という特性を友人(安倍晴明)に植え付けられており、島での活動を主としています。島を渡る度に本領発揮できるので、本土にいる時は大抵他で善行(当社比)を積みまくってから現れています。日本ってそもそも島の特性があるからなあ。イギリスとかもいけるのかな? 行かないでほしいな。いけ好かないので。
 まあ、そんなやつの本拠地なので、この島自体が最悪なスポットとなっており、呪いの煮凝りみたいになってます。匣(閉じているすべての容器、建物)に封じ込めた呪いに繁栄をもたらしてもらう蠱毒が頻繁に行われている土地です。
 蠱毒というのは、壺の中に飢餓状態の虫や蛇などを閉じ込めて食い合いをさせて残った一匹を媒介に呪詛を行う、といったものです。その最後に残った一匹を使って毒を作って飲ませたり、最後の一匹自体を食べさせたり人の家に埋めたりして、その相手から冨や命を奪うという、最初に考えた人間やばそうだな、と思う感じの呪いです。
 このお話を皮切りに呪いの蓋が開き、みなさんの心に入り込み、似たような怪異があふれていくのが私の一連の作品です。自作に登場する容器に入った虫のような怪異や黒い先生や渡鳥の悪魔はすべてこの島から流れ着いたものです。最悪ですね。ここは滅んだ方がいい。
 悟くんには霊も人間も苦しんでいるように見えていて、その違いがよくわからないみたいです。死ねば仏、生き地獄なんて言葉もあります。生きていても死んでいても、そこにあるのはただの妄念かもしれません。私もあなたも、怪物になったことがないなんて言えませんし、怪物になれないことこそが虚しいのかもしれません。

 

 六:ちよちゃんのぼこぼこ
 とある島で起きた小学校でのいじめ事件。その被害者のお話。お察しの通り「黒い先生」案件です。この学校ではいじめへの参加が推奨されています。いじめと言ってもこのお話で存在しているのは、魔女裁判のような異端排除。正義にかこつけて何でも先生に言いつけ、どうでもいいことを悪いことのように騒ぎ立てます。みんなで噂して伝達してあぶり出すことがルーチンの一部になる。そうすると、常日頃から相互監視の中にいる子供たちの目は罪に肥えていきます。
 実際にこの学校には細かいルールがいくつも設定されており、鬼ごっこの鬼のようにいじめられっ子がバトンタッチされていきます。先生は黙認するのではなく、積極的にいじめられっ子を罰します。なぜって、悪いことをしたならば言いつけられるのは当然ですから。そういうことが自然になってしまった場所です。
 悪い子を見つけたら石を投げたり、教科書を切り裂いたり……誰も本心からやりたかったわけではありませんが、自分が鬼になるくらいなら、今までも続いてきたことだから、相手が悪いから、と連鎖は終わりません。
 いじめというのはそもそも巧みに集団真理を利用しているんですね。暴力性や衝動性、一貫性のなさ、被暗示性など、群集心理の要素を満たしています。そこに正義感が加わると公衆化が起きて、多数派に所属することによって正当さが証明されたかのように思えてくるわけです。そうすると次は、行動が大胆になっていきます。責任も思考能力も他者任せになっていきますから、過激なことが平然と出来るようになっていきます。
 ちよちゃんがいじめの標的になったのは、目立つ赤いぼこぼこの飾りのヘアゴムをしてきたからです。校則違反だったわけではありません。でも、潔癖な小学校の中では、異質であることが既に悪でした。彼女はちょっとのんびりしているだけの、気が優しくおえかきが得意なかわいい女の子でした。顔が変形するまで殴られて、陥没したり膨れ上がったりの「でこぼこ」にされてしまうまでは。
 描いていませんが、彼女をそのような姿にしたのは担任の教師でした。彼もまた、クラスでいじめが起きていることを認めるわけにはいかない、教育の本質もやりがいも見失ってしまってただ見えない圧力に怯えるだけの男でした。それが、黒い先生に救われたことで、誰にも何も言わせない方法を手に入れてしまったのです。そんな方法、普通にあるはずもないんですが。
 訴えるような眼は見たくない。口がなければ歯向かわれない。いじめられっ子が存在しなければ、生徒間のいじめで責任を問われることもない。それを咎められたら同じようにすればいいだけ。個性なんて、首から上をめちゃくちゃに潰せばどれも同じ。そうすれば、きっとみんな喧嘩をせずに仲良くしてくれる──そんな狂気に囚われてしまいました。加害者と被害者の関係ってわかりやすいようで複雑です。個人としては誰を非難していい権利もなく、誰を罰していいわけもないんですよね。
 先日、教育のやりがいについてちょっと話を聞いたりなんだりしまして。子供になにかを教えることも、導くことも本当に難しいことでマニュアル通りにはいかないよなあと改めて思ったりしました。まあ、このお話のようなことにはなりませんが、と、そう言えたらどんなにいいでしょうね。
 文章はひらがなの絵本のようなテイストを目指しました。怖い絵本のような世界は、残酷な子供たちを描く時にぴったりでした。

 

 十:うつらさんとは? やり方と注意点
 コックリさんの変型版のお話。元々のテーブルターニングは船乗りが樽で占ったらしいです。また、ゆめうつつ状態になった人が首をこっくりこっくり眠っているように上下した様子からコックリさんという説も。そこからうつらうつら=うつらさんという連想ゲームをしました。マジで十円に穴開けたら犯罪なのでやらないでね。
 コックリさんには、狐狗狸(こっくり)さんと書いてつまりは動物霊にとりつかれることだったのだとする非科学的な説から、集団催眠であるという説まで、科学的にも非科学的にも色々な考え方があります。今、説も何も集団催眠だよと思ったあなた。賢いですね。
 このコックリさんというのは、あとに出てくるお話の「棒の手紙」と同じように社会現象になるほどに事件がおきたり問題になったりして、わざわざ禁止されるほどの影響力がありました。ですから、流行当時の熱狂ぶりというのはすさまじかったのでしょう。現在ではもう騒がれるほどの怪談ではなくて、どこか懐かしい雰囲気のする恐怖ネタの一つです。というわけでブログ風に書いて現代アレンジしてみました。
 本作では当時の流行に逆らう様に手順を増やしています。なんだか制約や手間があると儀式っぽさが増すものですよね。こういうブログ形式というか、ネットという媒介で流行り出した儀式的なもの、御存じでしょうか。ひとりかくれんぼです。流行りましたよね。58話目の「スノッブと楽隊車」でもちょっと弄りました。詳しくはそちらで。
 話を戻しまして、このひとりかくれんぼも、名前の通り一人で行う儀式なので、客観的な冷静さを欠かせることができる手法になっている気がします。一人である、準備をする、それが罪悪感を伴うものである。そういうことで緊張状態を作り出してるのかな。この「なんだか手順などが本物っぽい」「呪われることをしているっぽい」という心理をついくのが催眠にかかりやすくするための常套手段なものですから、まあ意地悪なお話なのです。
 ここでいうエスさんというのはフロイト精神分析学でいう無意識の「エス」のことです。感情、欲求、衝動、経験などのおさまっているところがそれです。攻撃性なんかもある場所。詳しくはフロイトで調べてください。このうつらさんの儀式では「エスさん」と呼びかけることで自分に暗示をかけ、無意識化の錯誤行為(本心では思っているが無自覚な状態で起きる間違い)の発露を促したり、はては夢と現実を勘違いさせて攻撃性を自由にさせてしまおうというのが本質です。まあだいぶ拡大解釈して夢遊病のように書いています。許してね。
 なので「眠っている間に返事が来ている! 降霊が成功したんだ!」みたいな風に広まっていった架空の危険な遊びとして、検証ブログ記事みたいに書いています。多分この記事を書いた奴はどんなことが起きるかわかっててやってるので嫌なやつです。
 うつらさんの実行は自己責任で。何が起きても当方は責任を負いかねます。この言葉すごく便利!

 

 十二:カプグラのマリア
 学校の七不思議に触れちゃった怪異の話と思いきや、というどんでん返し系のホラーの皮を被った家族の絆的な話。意味怖までいかないですけど、ギミックを知ってから冒頭での家族のお母さんへのおざなりさとかを読むとある意味ゾっとするかもです。クトゥルフ神話などは理解できなさすぎる恐怖ですが、身に覚えのありそうな身近な恐怖は和製ホラーの醍醐味ですよね。多分こういうことじゃないんでしょうけど。やったことは全部返ってくる系のお話です。
 ホラーの定石って、やめておいた方がいいことをしてしまって報いを受けることが多いと思うのですが、それをリアルっぽくするとこういうことかなと。悪いとはわかっている。でも、日々の疲れからか人に雑に対応してしまう(今黒塗りの高級車のことを思い浮かべた人はおしおき)みたいなこと。
 お説教じみたお話ですが一応ホラーなので、お母さんの後ろに千本鳥居みたいに並ぶ大量の予備お母さんを配置して不気味描写もいれておきました。規則的に並ぶ人間を不気味に思う層は一定数いるはずだ。
 一番怖い思いをしていたのはお母さんなので、自分の知らない間に周囲の人間が怪異に巻き込まれていたら? という角度からの恐怖にもちゃんとなっていたらいいですけど。
 知らない間に呪われている怖さって、文字通り知らないことにあると思うんですが、知っているはずの人が知らない行動を取る恐怖っていうのも存在すると思うんです。恐怖って言っちゃうと罪悪感がでるほどの、あの人ってこういうことするっけ? みたいな。
 人が変わったようにという表現がありますが、それが善ベクトルであれ悪ベクトルであれ、別人みたいだと他人を評価する時、そこには相手を理解しているという傲慢さが隠れていますよね。あの人らしい行動、まさにあの人であるという言葉を使う時に、そう言われることが嫌な人もいるのではないかなと思ったりして悩んだりします。
 個人的にはあの人らしい作風だ、などと言われると嬉しい半分、次は違うことをしてやるぜという気持ち半分になります。常に新しい面白さを提供する自分でいたいけれど、でもやっぱり私の持ち味は「みんなも私と同じでずるい人間だよね?」という作風なので、それもちゃんと愛してあげたいなあ。話題があちこち逸れる。
 タイトルの「カプグラのマリア」はカプグラ症候群より。ソジーの錯覚とも呼ばれます。カプグラさんという医師が発表したからカプグラらしいのですが、まあそこはよくて。このカプグラ症候群というのは家族や友人が偽物に入れ替わってしまっているという妄想を抱く疾患の一種です。
 要するにこのお話で書いているのは、学校の怪談というバイアスがかかって通常あるはずのない「母親の入れ替わり」を信じてしまっているという恐怖でもあるわけです。ホラー映画を見た後はお風呂で後ろの気配が気になったり、窓の外の影が怖くなったりという影響を受けるものです。しかし、家族が入れ替わる映画を見て、ちょっと違う行動を取ったからといってまさかうちの家族も……とはなかなか思いませんよね。
 にも係わらず、このお話の主人公はそう思い込んでしまうのです。いや、これだけ不思議なホラーのお話を書いておいて、いきなりその視点の話をするなよって感じなのですが。こういうところに突っ込むことによって読者の認識を弄れるなら面白いなと思いました。
 私叙述トリックみたいな小説読むとオラー! って怒ってしまうのですが、ここだけの話実は悔しいから怒ってるのです。だってずるいもん。騙されたもん。面白いもん。でもこの話は叙述トリックっていうよりはマジで今更そんなこと言ってんじゃないわよという感じのやつなので怒っていいです。怒っていいですけど苦情は受け付けません。
 ちなみに「カプグラのマリア」という名づけがそもそも「マグダラのマリア」のオマージュ、つまりは「偽物」という無駄な仕掛けがあります。
 マグダラのマリアはイエスによって七つの悪霊を追い出してもらったというような記述が残っており、それが大量お母さんを追い出す元ネタだったりします。いやもうこれ言い出したら千と千尋とかもあるのですが。偽物の中から本物を当てなきゃいけない状況、もしも自分に訪れたら相当怖いですよね。試されることも、ペナルティも怖いです。
 話は戻って。イエスの復活にはいろんなマリアがめちゃくちゃ立ち会っていて、読んだ感じだと何人いるかちょっとわからなかったという私の浅はかさもお話作りを手伝っています。怒らないでください。このマグダラのマリアという女性は東方教会西方教会では別々の伝わり方をしていて、西方教会が男性原理だったのもあってか、四福音に登場する罪深き女と同一視されていたりするんですよね。この辺も話を作るうえで参考にした部分です。家族構成が男性だけなところとか。そこか。
 さて。もしも、何も気づかなければ。きっと明日からは昔と同じニコニコ明るいお母さんに「代わって」いたはずです。みなさんの家族は、友人は、恋人は、普段とどこか違うところがありませんか?

 

 十六:朝顔便箋
 一言で言えば、これは差別と友情のお話です。まるでまりんちゃんを怪異か恐怖かのように書いていますが、かわいいものが大好きで、かわいいものが大好きな子と友達になりたかっただけのおばさんです。ただ、手段として手紙を抜いたり嘘をついたりしていたので、まあ結局怖いおばさんではあるんですよね。
 おばさん、とは書きましたがおばさんになることも恐怖のひとつかな、と思います。おばさんであることを認めることとか。今では私もネットでかなり年下の友人がいたりします。セーラームーンのグッズとかも好きなので、おばさんは殆ど私であり、自害的な内容でもあるのかもしれません。
 偏見と差別によって人間が怪異として伝わる怪談は口裂け女などが有名ですよね。口裂け女は江戸時代頃には狐の化けたものだとか言われていたみたいです。人間がもとになっているものでは、明治時代頃、夜にこっそり恋人に会いに行こうとした女性が一人で歩くには危険だからわざと怖い恰好=妖怪のように見せたという逸話が広まっているものがありました。調べていて私も驚きました。何ですか、半月型に切られたニンジンを咥えていた姿が裂けた口に見えるって。
 でも、要するにその時代によって人々の「そんなわけないじゃん」が更新されていくってことなんですよね。いやでもよく考えると、むしろ現代でニンジンをそんな風に切って咥えて歩いていたら怖いかもな。なんで咥えたんでしょう。魔よけの効果とか信じられていたのかな。当時だと山姥とかそう伝説が有名でしょうから、もしも本当に口を大きく見せるためにニンジンを口に咥えていたのならばこの時代にまで広く浸透するほど怖がられているのですから大成功ですね。
 1970年代になると口裂け女の怪談には現代的なアレンジが加わり、赤いコートを着ている、マスクをしている、だなんてものになります。また、この頃には既に怪異は子供に寄り添うものへと進化しはじめていて、子供の間で噂が広まっていった怪談になります。精神病棟から逃げ出した患者が子供を脅かしたという話すら口裂け女と結びつけられたりしてるので、よほど怪談が広まっていたのでしょう。新聞に載るとか、かなりの社会現象にもなっていますよね。いたずらで刃物を持って口裂け女の恰好をした人が実際に逮捕されたりだとか。
 この時代って怪談全盛期というか、パニックが伝染しやすい時代であったように思います。なんだろ、当時は当然最新トレンドだったのでしょうが、今から見ると怪談のリアリティがすぎるというか。怪異が異界じゃなくてこっち側の日常にいる感覚が強いんですよね。情報の伝わり方がアナログであったことが関係しているのでしょうか?
 それとも「おばけトンネル」でも描いたように、子供を守るために一人歩きや寄り道を怖がらせようと広まったのでしょうか。50年代頃の所謂鍵っ子世代(知らない人は調べてね)が大人になるのがこの70年代ですから、そういう側面もあるのかもしれません。現代でこういったタイプの怪談を事実と混同して怯えることって子供でもあんまりなくて、そう考えると70~90年代に流行した怪談の多さと規模の大きさって近代にすると結構異常なんですよね。
 昨今流行した「きさらぎ駅」なんかがニュースでとりあげられて警察が出動するって想像できないじゃないですか。ただの行方不明者として処理されるんです。昔だってそうだったはずですよ。でも、それを信じる力と信じていなくても騒ぐ力が怪談にのっかりやすかったんでしょうね。今では「ここで昔非業の死を遂げた……」なんて噂話の根幹となる真偽について誰でも調べられますし、実際の事件をネタにしてはいけないという感覚も正しく広がっているのもあるかもです。
 あと、現代からするとむしろ遠い方が怪異の住む場所で、学校の帰り道にいるよりは派遣のバイト先の方が怖いと思う心理がある気がします。異界は隣人ではなく、迷い込むものという感覚はむしろ原点回帰に近いかも。
 90年代の口裂け女の噂話には今度はおよそ子供の間の噂では聞きなれない単語が飛び交うようになります。整形手術に失敗した人だとか。所謂ステレオタイプの死人に口なし系怪談ではなく、生者を怪異にしようとするタイプの噂です。多分この頃には一度社会現象になったのもあって、怪談の流布に大人が関わり出しているんですよね。ポマードっていうと怖がる、とかの対処法が口裂け女に見られるのも、理由が欲しい、解決方法がないと不安だった、という背景があるのかも。同じ怪異の対処法として吸血鬼の十字架など、怪異の苦手なものを見せたり唱えるというのがありますが……口裂け女の逸話に対して子供がポマードと言う状況、なんだか微妙に残酷感が増している感があります。
 長い前置きになりましたが、この口裂け女のお話が社会を席巻していた時代を現代に蘇らせたくてこのお話を描きました。怪異が、家を出てすぐの場所にいるということ。開けた場所で、逃げ場もあるのに恐ろしいという怪談のもつパワー。そして子供の残酷さ。真実を突き付ける素直さ。そして見慣れない、異質である人間を怪異のように見る感覚。これらが朝顔便箋を描く根底にある部分です。偏見も差別も誰でもしてしまうものです。それが、どれだけ心を通わせた相手であっても。
 正直私も友人がポストにでかい蝉みたいに張り付いていたらだいぶ不気味だなと思うので、かれんちゃんが悪いとはちっとも思いません。嘘を吐いているまりんちゃんが完全に悪くて、滑稽で、どうしようもなく哀れなのです。
 さて、お話の方の説明に戻りましょう。まりんちゃんはこのお話で死んでしまうので、彼女を救うにはかれんちゃんが過去に戻って現在を変える必要があります。そうすると、今度は逆にまりんちゃんからしたら知らない女が強引に友達になろうとしてくるという不気味な図になるんですよね。
 またこのおまじないは書かれていませんが、その時間軸での術者の死か喪失で完成するので、現在の自分を思うすべての人たちの感情を置き去りにします。かれんちゃんは友達がいるというようなことを言っているので、まりんちゃんのためにその人たちのことはスルーしてこの時代から消えちゃうんですよね。彼女もまたちょっとヤバい子です。過去には過去のかれんちゃんもいるわけですから、漂流者となってしまった大人のかれんちゃんにまりんちゃんとの友情が取り戻せるのかはわかりません。
 タイムスリップものとか大好きなんですけど、そこを描かずに委ねる終わり方もいいかなあと。ニュースで終わるのもホラーらしいですよね。作者としてはうまくいけばいいなと思いますが、人々と生きる時間がズレて浮いてしまった存在の受ける寂しさや虚しさというのは、ある意味「ガッコウノカイダン」で書いた気もするので。うまくいかなさそうだなあ。私ならめちゃくちゃ警戒しますね、命を捨ててまで友達になろうと距離を詰めてくる女。
 あと、朝顔の便箋って結構大人っぽいですよね。朝顔は夏休みっぽいので子供っぽいですけど、多分子供同士の手紙のやり取りではあんまり使わないんじゃないかな。かれんちゃんはまりんちゃんを妹のように思っているのですが、彼女はまりんちゃんとは逆に早くおとなになりたい子なんですよ。ちょっと大人っぽい便箋を使ってかっこいいと思われたいような。大人になりたくて早く友達を守ってあげられるようになりたかった少女、こどものようにかわいいものを身に着けて生きていたかったおばさん。
 どうしていつのまにか、もうこの年になったからこういう服は着れないな、なんて思うんでしょうね。

 

 十八:イドの七不思議考察
 このお話はmeeさんの「名乗り」に出てくる井戸から招く手の怪談とちょっとお話が混じって伝わっている、みたいな設定で書いたものです。別の学校だと七不思議が微妙に違うみたいな、そういうことありますよね。
 いくつか前のお話の「うつらさん」で書いた無意識=エスのお話と根源が一緒です。エスっていうのはイドって呼ばれ方もあるんですね。なんかアメリカの学者の人が呼び方をつくったらしく、そっちの方が浸透しているみたいです。このイド(無意識)というのはスーパーエゴ(超自我)の対極にあって、よく耳にするエゴというのがその中間地点にあるんですね。
 これは「匣」や「うつらさん」を下敷きにして描いていて、肉体から離脱した魂はイドの割合が高いのではないか、という私の憶測から生まれています。この辺り、meeさんの「名乗り」で語られる嘘がつけない霊とちょっと言いたいことが似ています。でもmeeさんの生み出す霊の返礼に関する定義や、tamaさんの描くあるがままに存在する怪異とかなり違うので、本当に三者三様で面白いなあ。
 因みに私は怪異を現象、機構として描くので、霊とはまた少し違うかも。霊が怪異になることはあっても、怪異が霊になることはありません。就職先みたいな。
 話は戻って。このお話では無意識の状態──人間としては死を迎えたものの存在し続ける思念──がイドという七不思議として伝わっていたみたいです。そんなややこしい七不思議を作った、というか伝えたのは誰なのでしょう。お寺に行かれずに学校に留まっていた霊が、後輩の霊に伝えようとしたものが広まったのかもしれません。
 このレポートを書いていた村木少年は七不思議の事実に近づきかけますが、そもそもこの七不思議が死者の道しるべとしてしか存在していたため、真実を知ると同時に書けなくなってしまいます。七不思議に殺されたというよりは、死が近いものにしか実感できない七不思議だったのですね。代わりに書いていた彼は、村木くんに心を寄せすぎない限りは呼ばれてしまうことはないでしょう。七不思議の最後を知ると死ぬ、みたいなギミックはこういうふうでもいいよなあ、と思いました。
 あと、私は人の最期に耳の機能だけは残っているというようなお話が好きで。そこから膨らんでいった部分もあります。死んだもののための七不思議という着眼点自体はだいぶ個人的に新しいぞ、と思ったのですが……うまく料理できたか怪しいです。でも、ホラーあるあるの、途切れた手記が書けただけでもまあいいかな。

 

 二十一:おばけトンネル
 これ本編で全部説明しちゃってるんですけど、言い伝えには理由がある系の話ですね。そしてまたどんでん返し系のお話。子供の霊ではなく大人の霊の方が危険でした、という話。語り継がれることに意味はあるけど、語り継がれないことにもまた意味がある、というような。
 シンプルに見た目の怖い怪異に両側を挟まれてのパニックものです。大男もかなり哀れなヤツなのですが、暴れさせまくっているので哀れさは最後に滲む程度でいいかな、と思いました。ありすぎるのもないのも怖いぞ、ということで。額から上の頭がたくさんついた大人と、額から上がない子供の対比を作りました。忌地での悍ましい因習、考えるの結構難しかったけど面白かったです。あと、ホラーといったら、解決したわけじゃないけど走って逃げ伸びる、みたいな話を一つくらいは書きたいですよね。
 はてさて、なぜトンネルという場所がそこまで怪談話の槍玉に上がるのでしょうか? 暗いから。空が閉じられているから。電波が入りにくいから。声が反響するから。もしかしたら神聖な山かもしれないものを切り崩しているから。建設中に事故が起きた可能性が想像できるから。
 様々な要因が考えられます。これはtamaさんが「此先地獄」でも描いていたことなのですが、どこかへ通り抜ける場所だから、その先が視認しにくいから、というのも理由の一つかもしれません。もしかしたら異界に通じているのでは? と思わせるのがトンネルの力ですよね。あの草のトンネル怖すぎませんか? 限りなく小さく見える出口のその先が、見知った場所ではないような、そんな不安感を駆り立てられる場所。だからトンネルって魅力的です。
 トンネルの都市伝説って結構どこにでもあって、大概が車に乗っている最中のものなんですね。上から何か落ちて来た衝撃があるとか、後部座席に誰か乗ってるとか、窓に手形がつくとか。よくトンネルは息を止めないといけないなんておまじないが流行ったりもしました。トンネルの霊が口や鼻から入ってきて身体を乗っ取られるから、とか。なので、このお話では歩く場合のトンネルの怪談を描いてみました。歩くには長いトンネル。要所要所に明かりはあれど、それでも薄暗い。狭くて、蓋がしてある、そんな場所。真ん中あたりまで行くと、来た道も向かう道も、その出入口はとても小さく、頼りなく見えてしまう。
 トンネルが出来る前にそこには何があったのだろう、って調べると結構トンネルの真上がお墓のこととかもありました。そういうところからトンネルの都市伝説が生まれるのかも。
 これは私の創るお話なので、さっくり悲しい事件だったね、とは終わらず。子供の霊を助けたいと入れ込みすぎた伊藤は、忠告を聞かない犠牲者が死ぬことを厭わなくなってしまいます。それは子供の霊の本懐ではないでしょうし、伊藤には自分にも妹がいたはずなのに、トンネルにばかりかまけてしまっています。
 きっと、あの出来事で死んでしまったり逃げ伸びて日常に戻った人たちはまだ、マシな方だったんです。伊藤のようにトンネルに執り付かれてしまうよりは。私、仄暗い水の底からという映画が好きなんですよね。はい。

 

 二十二:ペオルは何度も止めた
 これを書く前に、ペオルは私も止めて欲しかったです。デスゲーム系のお話。嘘は言わない(演技はする)けど言ってないことはたくさんある大人と、すべてを馬鹿にした子供の本気のゲームです。
 ペオルはベルフェゴールという怠惰を司る悪魔なのですが、人間をだらけさせるためにせっせと面白いものや便利なものを布教していて偉いと思います(?)ペオル山どうこうらへんの話を調べるのに聖書を読みまくって脳が溶けました。くじ引きとか聖書に出てると思いませんでしたね。ベルフェゴール=ベルはゲームとお酒が大好きな働き者です。ちょっとずるいゲームをしかけては、人間を堕落させたり将来有望な若者を部下に引き込んだりしています。元々私の創作キャラで、電話の発明者~の自己紹介はそこかしこでしています。ちょっとちゃらんぽらんに見える男です。
 アルくんは本当に可哀相なのですが、過去に母親と梢ちゃんに掛け金にされており、梢姉ちゃんが負けたせいで感情のほとんどを失い、梢姉ちゃんへの暴走した固執だけを残して生きて来ました。とはいえ本当に可哀相なのは突然両腕を失う今のお父さんなんですが、ギャンブルをするってのは何かを失う覚悟があるってことなんですかね。自分も周りも。
 算数が出来ないので途中丁半がわけわからなくなったのですが、なんとか完成してよかったです。一応胴元の言い回しとかを探して決めセリフ的にいれたのですがよくわかってません。
 最後にネタばらしをしてますがベルは1~6までの数字で最初から1と6は完全に見えています。見える数字が一つだけとは言ってませんからね。なんか悪魔は逆さになっても成立する数字を読める、という話があるんですよね。まあ調べても全然出展が見つからなくて詰んだのですが。最初の勝負は1と6の両方見えてたけど知らないフリをしたんですね。嫌なやつですね。
 ベルは身内に甘いのでこれからアルくんは毎日ゲームを仕事にして楽しく生きて(?)行くと思います。スリルジャンキー的な部分が覚醒してしまったのは梢姉ちゃんのせいかもしれませんし、ベルのせいかもしれませんし、単純にその性質が閉じ込められていただけなのかも。
 噴火は、人間たちが手っ取り早くゲームにすべてを賭けられるようベルがおぜん立てしたのですが、引っかかったのはゲーム大好きマンだけでした。噴火に怯えた人々ではありませんでしたね。最後ちょっと愚痴ってます。ガンギマリおにいさん、好きです。
 ちなみに序盤にmeeさんの「ユウのスカートが揺れる」に言及している部分があります。みんな気づいたかな?

 

 二十六:集団滑り降り自殺
 死にたくないけど終わってしまいたい女子高生たちと、それを面白おかしくまたは衝撃的な物語のように伝える人たちのお話。
 彼女たちは見えない何かに引っ張られて死んでいく。それは既に自死を選んだ少女たちの手招きかもしれないが、自分の価値が薄れるのを恐ろしく感じる自覚からかもしれない。はたまた世間から賞味期限を設定された少女たちへの呪いか。
 孤立しているのに奇妙に繋がり合う少女たち。寂しさと孤独と、繋がれることも引き留められることもなかった空虚な手の行き先。バラバラに砕かれた心と体を内側に秘めたまま、彼女たちは美しく死んだ。そんなお話です。人間がわけのわからない動きをするのって怖いですよね。シックスセンスとか。それがうら若き少女だとなお絶望的にうつるのはなぜでしょうか。
 ああ、きっとこうなる前は美しかったのだろうなあというレッテル自体が、彼女たちを死に向かわせているのだとすれば。我々の何気ない哀れみこそが彼女たちを追いつめているのです。
 大人になると少女ではいられない。少女でいたい人も、少女の気持ちはわからないものです。少女という幻想を求めた時点で既に少女ではないというのは「朝顔便箋」でも描いたのですが。どんなに想像したって寄り添おうとしたって、大人には踏み込めない世界があるんですよね。その異界、匣の中で生きる少女たちは、子供でも大人でもない、境界の存在なのかもしれません。
 教師が言っていることからもわかるのですが、この学校でこんなことが起きたのはきっと初めてではありません。寂しくて同じ存在が欲しくて、という感情ならば慰めることもできたのでしょうか。

 

 二十七:救われる
 自分だけ助かりたいと思った人は惨めに生きる、的なホラーあるある。他人に呪いを振りまいて、自らも呪ったまま、折り畳まれた彼女はもはや自分で死ぬこともできません。ぺたんこになって、店頭に並んだセーターみたいな形で、内臓も骨も神経もなにもかもぐしゃぐしゃのはずなのに、生き延びてしまう。何回か一白界談で描いていますが、生きている地獄というのをじめじめと感じて頂きたく思います。
 死ねば助かったのにね。

 

 二十九:黒い先生
 自称結構いいニャルラトテプ。いじめられた子には銃を渡して復讐を手伝うタイプの余計なことしないで座ってなさい、という感じの男。自称石●彰の声が出るイケメン作家で、本を読むのが好きで、特に苦しんだ人間の書いた本が好きです。悪趣味というよりは、頑張ってて偉い、というような感覚です。小説を書いている人間にすれば、頑張ったことなどを作品の評価に織り込まれたくはないものですが。
 私の作品群筆頭意味わかんない退魔師縁霊寺さんが生涯をかけて殺したいと思っている神話生物の一体なんですがめちゃくちゃ近所に住んで封じられてます。最悪。縁霊寺さんに関しては「資料室の君よ」を読もう。
 黒井先生は自称親友だった安倍晴明の姿かたちを借りていますが、存在が正気度を減らすので普通は闇そのものみたいな暗黒の顔に見えます。安倍晴明との約束で誰かを助ければ助けるほど本領発揮して封印された場所から動けるのですが、それとは関係なく個人の趣味で人助けをしています。やめてくれ。
 いらんことしかしないワクワクボーイで、人や生き物や霊や怪異を助けたいので困っている存在をいつも探しています。いるだけではた迷惑。もっとちゃんと封印しておいてほしかったです。
 ここで書きたかったのは本文にも書いたのですが、対処法を知っていたって恐怖を目の前にしたらなにもできない、という怖さです。色んな怪談の色んな対処法が噂で伝えられていて、それじゃつまらないからと対処法が封じられて、と最強になっていくのが怪談あるあるです。
 ですが、もっとそれ以前に。本物の怪異と対峙した時にそんなことが可能であろうか、という恐怖。これって怪異に限らず、なにかが起きたらこうする、というノウハウがみなさん思い浮かぶと思います。そういう時に果たして自分は冷静でいられるのか? そういう不安の種類です。訓練していても、暗唱できても、本当に行動できるのか。AEDとかね。
 最後の一文はよくサイコパス診断とかである、みなさんご存じのアレです。狂信者を増やすな。

 

 三十三:僕が死んでも
 後にでてくるお話の「スノッブと楽車隊」で語り部をつとめる少年の兄、田中さんが主人公です。すごく淡白で無機物しか愛せなかった男でした。埃を大切にするあまり換気もまともにせず一緒に寝たりしていたので繊維を吸い込みまくって肺を病んでしまいました。文中で骨が痛いとか言っていた辺りが呼吸器系の症状です。人間って酸素で生きているんだなあとしみじみ思うのが、ストーブとかつけていて酸欠になってくると思考能力が落ちたり眠くなったりする時です。酸素を取り込めないってすごく恐ろしいことなんですよね。
 彼の最期の願いである、埃が猫であれば良かったのにという祈りが叶い、埃は毛玉猫になりました。死後田中も怪異となり、念願通り埃とずっとずっと一緒にいます。よかったね。
 ペットは飼い主に似るもので、埃も子供や女性を面倒に思っています。不用意に触られると敵意剥き出しで埃攻撃をしてきます。風邪がひどくなると胸がちくちくしたりしますよね。喉がいがらっぽいとか。なので、繊維が身体に入っている、という恐怖描写をいれました。どこかの漫画家もリアリティが大切だとか言っていますが、これは私が喘息で死にかけた体験を基にしています。朝起きるとよく口の中から愛犬の毛がでてきます。
 その話はおいといて。まったく普通に社会と関わっているけれど、みんなと同じものを愛せない男がいました。そこに悲哀も理解されない苦しみもなかったのに、彼が初めて不自由を感じたのは愛するものが処分されてしまうかもしれないと思った時でした。ペットを飼った人が一番怖いのってペットが死ぬことよりも、一匹のペットを残して自分が孤独死したらって部分だと思うんです。だから飼わないって人も多いんじゃないでしょうか。餌も水もなく、飼い主も失い衰弱していくしかないペット。絶望ですよね。
 そんな彼の願いが叶ったのはなんの悪戯だったのでしょうか。そしてこの状態は本当に願いが叶ったといえるのか。わかりませんね。
 死んで教師という存在でなくなってもまだ学校にいるので、田中さんは子供を特に好きになれなかったけど、学校という場所が嫌いなわけじゃなかったのかもしれないです。

 

 三十八:つながる電話
 電話での話なので、行動や表情が一切わからないように、セリフだけの朗読劇みたいなやり取りで書きました。結構挑戦的なことをやりましたね。そのせいでネタの内容が伝わってないんじゃないかと怖いのですが。
 声だけでの会話って空気が読めなくて失敗してしまう経験、多々あります。電話怪談の多くは奇妙な声を聴く、謎の番号からかかってくる、辺りにある気がして、ちょっと違うことをやってみようと思いました。
 携帯電話が停まってたってオチみたいに言ってますが、停まってたらどこにも繋がらない筈なんですよね。じゃあどこに繋がったのかって、厄介なところに繋がってしまいました。そこにかけてからというもの、彼女との電話でも「ある一部分だけ」は聞き取ってもらえません。何かに阻害されるかのように、誰かの悲願であるかのように、彼女と別れることになってしまいました。
 最後に出てくる電話待ちの女性がカタカナで喋っている部分が、遮断されていた言葉なのかもしれません。声だけで優しそうな人だな、なんて勝手に思うことってあるあるだと思いますが……彼女は果たして。この男性がつながったのは、奇妙な存在との縁だったのかもしれません。

 

 四十一:資料室の君よ
 屍蝋というのが本当に好きなんですよね。何で見たか思い出せないんですが、推理ものか恐怖もので初めて見た時に衝撃を受けて。以来何度かネタにしているんですが、扱いが難しいです。
 今回の屍蝋は聖人の遺体。安倍晴明の死体です。何度も回復する、時間を超越した万能の肉体。まだ誰も失わせていない、万全の状態の最初の彼を取り込めれば、不思議な力を得ることも可能だった(という設定の)死体です。
 作中一切まったく説明されませんが、資料室が妙に冷えて湿度が高いのはあの遺体を保存しておくために前任の先生が魔術をかけていました。魔術師大バーゲンセールかな? 私、冷えたところに触れてくっついちゃって肉体がぽろっと取れたりする描写が結構好きなので、そういう意味でも冷やしてました。腕がすっ飛んでってくっついてるの、よい。
 きいちゃんの家は容姿と才能を重んじる家系で、先祖代々妙に繁栄してきた一族です。最近衰退傾向だけど、それでも繁栄時代の風習は手離さない。こういうところも怖さの一種かもしれない。
 私の作品ですとアドベントカレンダーに書き下ろしました「恋とはどんなものかしら」に出てきた運転手がきいちゃんの親戚だったりします。彼らの家系では容姿と才能を持っていない人間はいない者のように扱われたり、親戚中をたらい回しにされたりします。
 きいちゃんは幼い時分から英才教育を受けており、才能には開花の可能性がありました。ただ、彼は推しとどめて周りに合わせているものの狂人の素質があり、命を救う代わりに何をしてもいいというような思想があります。他人を自分の基準で推しはかります。存在して構わない人間とそうでない人間を振り分けることが一般的に良くないことだと理解していても。
 そういうところが縁霊寺に気に入られた理由かもしれません。目的のために自分の手を汚すことを厭わない若者が、彼は欲しいっぽいです。
 作中に名前が出ているのですが、こちらの怪異はクトゥルフ神話ショゴスという怪物が元ネタ。詳しくは調べてください。実際のショゴスは切っても倒せないので、なんか弱い奴だったんでしょうね。雑だな。
 ショゴスといういきものは再生能力もそうなんですが、人間のフリをできる上位存在がいたりするんですね。それから、ショゴスは人類の元になったともいわれていて、そういう部分で不思議な屍蝋と対比させたくて出しました。本当に学習して形状を変えるって強いので、TRPGの最中に目の前に現れたらまあ結構詰んでます。逃げられるといいね、くらいの。実際きいちゃんも殺すことは出来ず、縁霊寺が封印しましたが。ショゴスタピオカはいつかクトゥルフのオリジナルシナリオにしようと思っていたのですが、単体ではちょっと弱いので小説にネタを輸入してきました。人間になり変われるから内臓の真似もできるって結構とんでも設定ですが、面白いかなって。
 きいちゃんとショゴスのやり取りのシーンは、これ医療行為だよね? って思うくらいにラノベのバトルっぽくしたくて頑張りました。ギャルゲのバトルの方が近いかもしれない。
 医療用語を何ひとつわからない人間が書きました。許してくれ。

 

 四十六:プール・ワンズ・レイジ
 初期タイトルは「溺れろ」でした。後に一白界談の編集中のmeeさんにお話を場所シリーズでまとめたいと持ち掛けて頂き、もうその頃は頭がだいぶ死んでいたのですが……なんとかかっこいい題名になれました。よかった。
 これは完全に「〇〇立方メートルの悪意に首まで浸かっていた」というところが書きたくて書いた話です。他人の憎悪が向けられていることに気づかず、毎日その恨みに晒されていたとしたら。それが、自分にとっては仲良くしていたつもりの、目をかけていたつもりの相手だったら……という、知って初めて過去の全ての時間が怖くなる系のホラーです。ヤンデレストーカーとかも気づかなければ幸せなもんですからね。果たしてどっちが嫌な奴なのかは、読者のみなさんの主観に委ねられています。
 復讐の醜さ。無意識に行われるいじめのような行為。どっちもやれやれという感じです。あと、違和感を持ってもらえたら成功なのですが、普段私が書いているセリフと一人称の関係性を逆転させています。セリフの雰囲気と一人称が噛み合っていないように工夫しました。こっちが僕っていうんだ、と思ってもらえていたら嬉しいなあ。他人に見せている自分と本心が違うのは、二人ともであり、誰でも同じなのですね。
 あと、周囲には滑稽に見える苦しみというのが結構描写として好きで。空っぽのプールで踊るように窒息する人、いいですよね。それを気分よく見下ろす、被害者だった加害者。絡まる髪の毛。だれの者かもわからない髪の毛の束も結構私苦手描写です。仄暗い水の底にショックを受けすぎでは?
 ちなみに学校のプールの大きさを調べるのにとても手間取りました。

 

 四十九:誰がための空席。
 最後にアレっとなる話っぽく書きました。最初に「そういう子」というのがおばけのことかな、と思わせる。途中で知り合いという話が出てきて、子供の頃亡くなってしまった子なのかな、と思わせる。だけど最後に姉が「知らない」でも「忘れた」でもなく「そんな子はいない」と断言する。それがびっくりポイントです。
 このお話は、実はつるちゃんはみっくんのイマジナリーフレンドでした、という話です。そういう仕掛けです。学校側がイマジナリーフレンドを保ち続けている生徒を保護して解消させているんですね。
 みっくんのイマジナリーフレンドだからみっくんの隣の席が空席だった。イマジナリーフレンドだから昔から気が合った。家族はその存在を知らない。そして、なぜだか忘れていた。
 学生は大人になるための準備期間で、過去と切り離される訓練の時間なのかなあという思いがあって。怖いながらも少しさわやかなお話を書きました。

 

 五十二:伝染する最上の幸福
 タイトルは私のもう一つのペンネームである「モガミ」ともかかっています。私は人の幸福とはその一部に愛することか愛されることが内包されていると思っています。そして無条件で愛されるのは赤ん坊の頃までかなと思っています。あと、無条件に赤ん坊を愛おしく思ってしまう体験をした時にこれって本能的で怖いなと思ったことがありました。
 愛って病気みたいじゃないですか。人に伝染させましょう、って。みんな愛しましょう、愛されましょうって。それが当然の権利みたいなくせに、受動的に得られるのは一時的になんですよ。不思議すぎる。
 話を戻して、つまり受動的に愛されてても許すよって世間的に言われているのが赤ん坊なんですね。なのに生まれてきて愛されるよりお腹の中の方がもっと愛されているという思想がこのお話にはこびりついています。
 生まれたら愛されないかもしれないじゃないですか。なら、お腹の中ではお母さんと繋がっているから、愛される確率もあがる、みたいな。ただ、親からしたら愛したかったけど愛せなかったということもあるんじゃないかと。ラストの刑事のように。彼はもう赤ん坊を愛すのは難しいと思います。
 愛したいけど愛せないにもいろいろありますよね。思っていたのと違うから愛せない。そんな余裕がないから愛せない、などなど。それで、このお話では愛したいのに向こうが愛させてくれないパターンを描いています。赤ん坊が親の愛を拒絶するというお話です。多分芥川龍之介の「河童」を読んで、生まれることを拒否する赤ん坊の部分に影響されたのだと思います。
 思考能力がないと思っている相手が自我をもって動き出すのも怖いです。まずそうしない動きをされるともう怖いです。私、赤ちゃんがCGで喋るやつとかめちゃくちゃ怖がっちゃうんですよ。赤ちゃんが楽器演奏してるCGとか、すごい怖い。で、さらにお腹を痛めて産んで慈しんできた赤ん坊に自殺されるなんてもう最悪じゃないですか。
 でもこのお話ではそこを事件として刑事が淡々と並べたてます。そうすることで変死の状況が様々であることを説明できますし、刑事の視点であることで社会的にまずい状況だぞという深刻さが簡潔に書けば書く程出ます。パニックものみたいにしたいなーって思っていたので。
 あと、赤ちゃんが喋って真理や思想を伝えてくるのめちゃくちゃ嫌じゃないですか? お腹の中で別の生き物を育てていたような絶望とか、自分の身体なのに見えない部分って本当に不気味で。その辺は「資料室の君よ」でも書いているんですが、医者くらいしかお腹の中を見る可能性ある存在ってあまりいなくて、他人なのに自分より自分の中身を知ってる。すごい信頼が必要ですよね。赤ちゃんの記憶は大抵大人にはないわけですから、その子たちが知りえていて自分は知らないものがあること、大人はなかなか受け入れられません。
 このお話のアーカーシャアカシックレコードのことであり、インドの伝統思想のアーカーシャとは違います。詳しくはルドルフ・シュタイナーについて調べてもらえるといいです。勿論個人的な解釈をしているので、シュタイナーの説とはかなり違うのですが。
 で、そのアーカーシャを通して全事象や全想念、全世界の過去未来の記録を見た最初の一人が、幸福の答えに辿り着きます。それが胎内で守られる絶対の愛を享受する幸福。その人にとってそれは真理であり、ほら、なんでも知っている人の説得力ってその思想がどんなものであれ素晴らしく見えてしまうことがあるでしょう。だから、カリスマ的に共感され、爆発的に伝染しました。
 生まれる前の子供、そもそも細胞が形づくられるまでの時間と物質の変化。無と有の狭間は、虚に通じていてもいいんじゃないかな、と私は思います。科学で解明出来ても出来なくても、大多数の人間が知らないことが神秘として囁かれてしまうように、存在が確定する前の赤ん坊の意識、生命力はどこまでもつながった空間の中を漂っているかもしれない。そこで赤ん坊同士が結託して思想を伝染させる。胎児たちによる宗教の構築みたいな。マルヤのとんでも理論でした。
 これでしか救われないと思ってしまう時、ここにしか存在できないと思ってしまう時ってあります。学校という匣の密閉性を感じる人っていると思うんですよね。合わなければ辞めればいい、転校すればいい、簡単なことじゃない。出来るはずだけど、様々な要因で難しい。逃げるや負けるって言葉の鋭さだったり、人に迷惑をかけてしまうからとか、理解してくれる一人の人を裏切れないとか。
 会社は学校よりも少しだけ匣から出やすいです。自分のお金、自分の責任、引っ越しだってそれらを持っていればできるのです。それでも出来る筈なのにできないことが多いくらいで、大人になれば助かると思っていたのに絶望してしまうこともあります。だから、学校という匣は、いつでも出ていけるけど出られない、不可視の密閉性がある。
 動物って、自分の身を外敵から守るには匣がいるじゃないですか。気温や雨、不特定多数の大小の自分を害するかもしれない存在。そういうものから守るために屋根や樹、土の下にいるわけです。それなのに、共同で時間を過ごす匣の不快さはどこにあるのでしょうか。
 かれらは思ったのでしょう。苦しみや悲しみが本来匣の外にあって、それらを遠ざけるために匣があるならば、「自分以外の存在が匣に入っていることが不快なのは耐えられない」と。学校を飛び出して家に帰りたい、家という匣も一人ではない。しかしこどもには生活するには助けがいります。ではどこに帰ればいいのか、それが子宮です。
 成長し選択肢を増やして、世界を開いて幸福を探して生きるよりも、閉じた胎内で覚えのあるあたたかさに包まれる幸福を選ぶ。さながらいつもの店で同じランチを頼むようなその行動選択は、確かにかれらにとって安全で安心なのです。
 わかる気がする人もわからない人も彼らのような選択は取りませんが、そこで勇気を出して他人の感情や意見を無視してみたのが、かれらです。その思想は気持ち悪かったり憧れを生んだりしますが、どう転んでもそんなことを思いもしなかった様々な人々に衝撃を与えます。それが、パニックの引き金です。そしてパニックが広がるのは、事態を軽く見る人々と、自分だけには関係がないと思うこと、現状対処が不可能なこと。
 一度生まれた思想が完全に消えることはありません。このお話の事件は減っていきましたが、きっとまた同じことがおきます。これからどんどん窄まっていく人類の序章です。などと、金澤少年のようなしゃらくさい持論を展開してみました。むかつきますね。
 自分勝手な金澤が、なんども自分の幸福を追求することを誰が止められるのでしょうか。先に始めた人から生まれ変われることを知ってしまったら、急ぐ人がたくさん出てくるのでしょうか。このままでは二度と絶対の幸福を味わえないという脅迫。それが幸福といえるのかどうかは、刑事さんにはわからないのです。
 オチはよくある嫌なオチにしてみました。後味悪く、絶望的に。どうかみなさんがこのお話に伝染しませんように。

 

 五十七:あしびき
 学校に昔からある古いものってなんか怖いですよね。なんでか大切にされてるとか、なんでか入っちゃいけないみたいな。このお話はそういうところに足を踏み入れてしまった時の罰みたいなお話です。結構あるあるですよね。たまたま礼節を守っていたから助かったみたいなの。
 でも、一緒にバスケをやってる仲間が犠牲になったのって、助かった気持ちしないですよね。スタメンがいなくて、事故も起きれば大会には出られませんし。練習していた日々も無駄になっちゃうわけです。助かったじぶんがお見舞いに行くのも嫌かもしれません。そして疎遠になってしまったり。どれだけ真摯な頑張りがあっても一瞬で消えちゃうことがあって、まさかそんなことで? ということがトリガーになったりして。
 あしびきは結構前からあたためていた創作の神様だったりします。山鳥の神様で、関所などに祀られる旅を守護する神様でした。お供え物をしてお参りすると健康を守ってくれて、安全に長旅ができるみたいな。現在は崇める人も少なく、妖怪と大差ないような存在になっています。
 ただ目の前を礼節なく通るとその足を引っ張る。ほとんど機械みたいな、現象みたいな行動を取るやつです。そこに恨みや呪いはなく、もちろんなんの救済やお目こぼしもなく、そういう存在だからやるのです。意味もなくそういう状況にしてしまいます。
 元ネタは百人一首にも収録されている柿本人麿の和歌。「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む」から。素敵なあの人のいない夜を一人寂しく眠るのかあ……みたいな歌です。枕詞の「あしびきの」は山に関係した言葉にかかるだけの、リズムをつくるためだけというと乱暴ですが、そういう意味のない言葉です。
 そしてこのお話のあしびきもまた、祀られなくなってからは山に関係するというだけのとくになんの意味もない機構です。それでこの枕詞を使いました。創作妖怪です。ホラゲー作ろうとしてたんですよ以前。その時は体育館のある場所を踏むとスイッチになって足を引かれる妖怪で、プールのあるある七不思議の体育館バージョンみたいにしようと思ってたんですが。今回「プール・ワンズ・レイジ」でそのあるあるネタをやってしまったので急遽変えてみました。終わったことを勝手に調べてセンチに浸るあかねも大概です。

 

 五十八:スノッブと楽隊車
 元ネタは経済用語の「スノッブ効果」「バンドワゴン効果」から。本当は「ヴェブレン効果」も使ってるんですが、タイトルとして納まりが悪いのでこうしました。
 バンドワゴン効果は他者の消費が増えるほど需要が増えること。つまり「みんなが持っているから欲しい」「流行りに乗り遅れたくない」「みんなと同じものもっている/みんなが買っているなら安心だ」という人間の心理からくる需要の高まりを言うそうです。
 スノッブ効果は逆に他者の消費が増えるほど需要が減少すること。これは「みんなと同じものを持つのは恥ずかしい」「品質のいいものや、変わった形のもの、個性的なものがほしい」そんなこだわりの心理から生まれる需要です。
 ヴェブレン効果は顕示性が高まるほど需要が増えること。高級なもの、認められたすごいものに価値を見出すことです。ミシュラン、豪華客船、ブランドバッグなどの「私ってこんなに高いものをもっているのよ、すごいでしょ」という心理からくる需要。
 物語の主人公はこの経済効果を巧みに操り、自分の生み出した無価値な布のぬいぐるみを流行らせることを思いつきます。そうすることで自分の呪いを分散することが目的だった彼は、いつしか流行を生み出すインフルエンサーとなること自体に、その万能感に楽しみを見出していく、というお話。
 個人的にはぬいぐるみって、ひとりかくれんぼで和ホラーシーンに輝いた感じがしますね。どうしても洋ホラーイメージが強かったのですが、ひとりかくれんぼってじっとりしていてザ・和ホラー要素があります。このぼべぬいは「うつらさん」とは違い純粋な降霊術であり、呪いの伝播機構としては「棒の手紙」でも描いた不幸の手紙に近いのに、主人公によって一部で爆発的に流行してしまいました。
 お話全体のギミックとしては、読者に語り掛けるような書き方をしているけど、彼が語り掛けていたのは自分にとりついた霊でした、という部分です。一個前の「伝染する最上の幸福」と同じでこれも呪いが伝染するタイプのお話。あっちは思想の伝染で、これは本当に呪いがうつるやつ。しかも、意図して流行させているのですが、助かるためというよりは実験の意味合いが強い。好奇心旺盛で、ほんの少し賢い子です。
 語り部は「僕が死んでも」で他の学校で教師をしている田中さんの弟です。あの時に妹が具合が悪そうだったのは、この子がぼべちゃんで呪っているからですね。こいつは嫌な奴です。呪いの流行を調査するって、田中くんは相当怖い発想をしますよね。
 最後、彼は自分の霊にスノッブと名付けていることが判明します。流行を操っているようで彼もまた、人と違う霊を持っていたいという心理があるのです。というお話。子供の頃はよく学校の噂や七不思議を作って遊んでいたので、その経験が生きた気がします。嫌な子供だ。

 

 五十九:棒の手紙
 元ネタは不幸の手紙。これも社会現象を巻き起こし、手紙からメール、ウェブサイトと不死鳥のように媒体を変えて何度も生まれ変わる都市伝説です。みなさんの中でもどれかしらを目にした経験がおありではないでしょうか? こっくりさんと違って受動的ですから、自分が怪談に加担する気がなくても届いてしまうのが特徴的ですよね。
 このお話では万年筆にとりついたサチという女性の亡霊が、不幸の手紙を通して怪異に膨れ上がったみたいな設定です。本編には書いてないけどストーカー気質の女性で、好きな人から手紙が欲しくて一方的にアプローチして万年筆を盗んでそれで手紙を書いて万年筆を添えて置いておくみたいな元々怖い人です。
 創作のようにタイトルに据えましたが「棒の手紙」というもの自体は実在した不幸の手紙の派生系です。棒の手紙不幸の手紙を書き間違えたまま広まったらしいのですが、その間違えた棒の手紙の方が怖いな、と思ったのです。間違えた内容をそのまま書き写したらいいの? みたいな不安とか、そもそもそこにあるべき字が違う字で書かれているのもちょっと怖い。
 こちらではお返事が来るのを足を棒にして待っていた女性が怪異となったものをそう呼んでいます。会えない時間が愛情を育てるとはよく言ったもので、待っている間に勝手に妄想じみた思いは膨れ上がり、こんなに大きくなりました。
 とてつもなく大きい怪異というと見上げ入道だとか、古くから妖怪としてメジャーですね。大きいということは恐怖に繋がるわけなんです。私は本当にこの大きい系の怪異が苦手でtamaさんの「生首団地」とかはブチギレ散らかしながら読みました。怖すぎるよ。
 サチさんは、昨今萌えキャラとして落とし込まれて恐怖を薄められつつある八尺様の巨大バージョンというイメージ。萌えカルチャー的な部分は踏襲つつもしっかりと不気味に描けていたら嬉しいです。なんで世間の萌え八尺様とわざわざ戦うんだ私は。そういうとこだぞ。
 ギミックとしては読み始めてすぐに文章の崩壊に気づき、どうやら棒というただの誤字には思えないぞ、というお話。でも人間の脳ってある程度文章を補完してくれるので、だいたいどんなことが書いてあるかわかってしまうんですね。
 この園田くんが可哀相なのは、万年筆を買ったのも偶然で、手紙をお姉さんが持っていて返事を書けなかったのも完全に事故ということです。まあ、彼の性格だと多分期日に間に合っても書かなかったと思いますが。
 見慣れている風景の違和感の正体が怪異そのものだったというのも恐怖ポイントです。見上げたら大きいものがいる。しかもその怪異に身の覚えのない愛情を囁かれる。この辺は「つながる電話」とも近いですが、サチちゃんはだいぶ積極的な子なので……。眼球同士のキッスってもう少し耽美的なものだと思うのですが、自分の身体より大きな眼球とくっつきたくはないですね。
 怪異に食べられるというとムシャムシャされるイメージがありますが、彼女の場合は多分丸のみできるサイズです。また、かわいいから口に入れたいくらいの気持ちで一回園田くんを口内に入れました。意味がわからないですね……。言ってることもずっとわけがわからない。それを愛だと宣う。迷惑な話です。
 この手紙は万年筆の持ち主に届くので、買った時点でアウトでした。付喪神とは違いますが、物には所有者の念が宿ると言いますし、中古品を買う際にはくれぐれも気を付けてくださいね。

 

 六十一:ヒゲゲゲン
 タイトルは作中でも出ましたが、けうけげんより。かなりライトなギャグ調で進み、感動系のオチに向かう話。人と怪異は交われない、というのがテーマ。
 実際にはこのヒゲゲゲンはけうけけげんではなく、麻桶の毛と呼ばれる妖怪です。神社のご神体である桶に入れられた毛の妖怪で、その神社の神様の心が穏やかでない時に毛が伸びて人を襲うというものです。麻桶毛でマユゲと呼んだりもします。仙人じいさんの眉毛も長かったですね。関係ないのですが。
 今作では麻桶毛を神様の感情を表す=お告げをしてくれる神々しい存在としています。とある廃れた神社の神様が力をなくしていて、麻桶毛を使って人々を襲い、エネルギーを集めて持ち直そうとしています。
 この仙人のおじいさんは、効率的かつ安全に神様の力を取り戻すために、知人の神主さんから預かった麻桶毛を人に寄生させて飼育する方法を編み出しました。しかし、主人公は話を聞かずに麻桶毛を持ち去ってしまい……というお話。
 仙人のおじいさんと後の方に出てくるお坊さんは同じお寺のお坊さんで、良い人そうなおじさんのお坊さんは、仲間に言われて麻桶毛の宿主を探して、見つけてからお寺に誘い込んで監視していました。実は縁霊寺とも知り合いのお坊さんたちです。よく出る寺だ。寺がでたら勝つるんです。
 かなりゆるいお話として進んでいくのですが、後に語られる通りかなりの規模の人間が衰弱する大きな事件が起きています。人外とのふれあいストーリーを描くなら最後はハッピーなのも書きたいなと思っていて、でも実害はある。それから目は逸らせないよね、という現実感も出したかったんです。かわいくたって危険な存在はいて、それらは人間が生きていくためには時には排除される。
 ヒゲゲゲンの鳴き声である「やん」は「YAM」と言っていて実は結構可愛くないのですが、なんでそんなファンキーなのかというと冒頭の仙人じいさんがロックとかが好きだっていうそれだけです。このおじいさんは嘘つきでわがままで、見た目も簡単に変えられてしまうので、主人公が髭が生えない文句を言う機会は一生ないかもしれません。儂説教とかする側じゃもんね。
 必要のない情報として、お話を聞いてくれたいいお坊さんが藤岡、てきとうおじいちゃんが妙勝院といいます。ラストのあるあるいい雰囲気オチ、結構気に入ってます。

 

 六十四:ひみつペット逃走中
 猫好きの高村くんが大失敗する話。意味怖系のテンプレみたいな作り方をしています。三毛猫の雄だと勝手に思い込んで、友達の猫を自分のものにしようとするところがまず個人的に怖いです。どういう思考回路したらそうなるんですか。
 写真が嫌いとか、近頃物騒だとかの描写が伏線です。益子くんが飼っていたのは危険な匂いのするおにいさんでした、というオチ。札束を握らせて言うこと聞かせようとする人も怖いし、そのお金の魔力というのに抗えない子供も怖いし、個人的に気持ち悪いな~という話です。

 

 六十五:無関心なんだよお前は
 出だしで軽快な音が鳴るお話が好きです。デスゲーム系とも違うんですけど、理不尽クイズ番組というネタも好きです。これ難しいのが、私はただ揶揄される世界観はあんまり好きじゃなくて。そういう世界観に置く場合は愉悦よりも一段飛ばしの別角度の不気味さを宛がって中和するしかないって思ってるんですよね。 悪者に罰が下ることの爽快感って、ざまあみろまで言っちゃうと不快なセンサーにひっかかるじゃないですか。ここまでそういう話書いてきて何言ってるんだと思われるかもしれませんが、一応自分のライン引きには忠実にやってます。そのせいでまともっぽい奴がズレてる話が多いのかもなあ。趣味かもしれませんが。
 このお話は視角的なイメージを大切にしていて、なのでテレビのセットとかそういうものは描写していこうと思っていました。短めの話の予定でやったので、できるだけ簡潔でありながら、映像的であればいいかな、と。実写ドラマとかでやると出オチ的にビビッドな色合いが出て面白そう。
 自分の選択に誰かの命運が委ねられるのが本当に嫌いで、トロッコ問題とか私を轢き殺して終わりにしてくれよと思います。そういう恐怖を描いたのがこの作品になります。人の名前を覚えられないことを、人に興味がないって言いきられるのも怖いし。そういう、あからさまな刃物で刺されることの痛みというか。錆びたナイフで、傷口からよくないものが流れ込んできちゃう痕をつけられちゃう感じですかね。
 ただ、このお話の主人公は極限状態に追い詰められて、このクイズを逆手に取る手口を思いついてしまいます。悪魔的ひらめきで、済まなそうな顔をしながらテレビ番組を利用した彼のことを、スタッフは見抜いている。そういうヒヤッとした部分がそのまま題名になる。そして、オチでそれが露呈する。自分の思い通りに他人の見た目を操作するという、悍ましいほどの執着と無関心。
 あー、あの人、あそこさえ違えば好みなのにな、という感覚へのハテナを感じて頂ければ面白く読めるかもしれないです。そういう話でした。

 

 六十六:一蓮托生
 これはラノベ的に書いた話で、わかりやすいボーイミーツ怪異です。そんなジャンルないですか。嘘だ~。蓮コラがシンプルに苦手なんですけど、怖いものみたさ的に見ることもあります。で、問題は見てわかるグロであるならば、お話としてどう怖くすればいいのかな、という点。しつこく描写するしかないかなあ、あとはギャップかなあという感じで。かわいい少年像みたいなものを蓮見くんに詰め込みました。多分、ちょっと昔のヒロイン像みたいなもの。青春群像劇って感じに書いてみたかったんです。
 植物の怪異っていうのも書いてみたいな~と思っていて。人型でも動物型でもなく、蟲でも不定形でもないやつ。願いを持っていなさそうなもの、かつ付喪神のように物として大事に保ち続けられない。生きてますからね。大事にしても生は終えるし、コミュニケーションも取れない。手をかければ綺麗に咲いたりはするかもですが。しかも蓮って期間が短いし。樹木じゃないから一回枯れちゃうと消えちゃうし。
 妖怪でもなくて、神話生物でもなくて、ただ青春に憧れる蓮の化け物を作ってみたかったのです。さよならの後もポップにさわやかに、夏に飲むサイダーのように煌めいて刺激的にという結末。
 タイトルは仏教用語より。極楽浄土で、同じ蓮の上に生まれ変わろうね。どう転んでも、善悪なんて関係なく運命を共にしようね。という蓮見からのことばのようです。人のことばを話す怪異と友達になんてなっちゃダメなんですよ。ほんとにね。

 

 七十一:ネクベトの食祭
 わかりやすくカニバリます。ですが、ここでの不気味さは食人にはなく、人間が飼育されたり、その肉が粗雑に扱われたり、あと衛生観念に悲鳴をあげたくなる感じの恐怖です。おいしいご飯屋さんにバイトに行ったら厨房が死ぬほど汚くてつらい、みたいなお話。そうか?
 オチはヘンゼルとグレーテルっぽくしています。
 タイトルのネクベトはエジプト神話の神より。ハゲワシや、女神の姿で描かれているらしいです。古代エジプト神話ってどうやら神が似た側面を持っていると結び付けたり、習合されたりするらしく。このネクベトという神は葬祭の神であるケンティ・アメンティウと同一視されたりするみたいです。オシリス信仰では豊穣の側面を付与され、母なる女神、出産の神としてのハトホルと一緒にされたり。
 本作の老婆はこのネクベトの信仰があるどこかから来た人です。ハゲワシとしての死体を漁る葬送の意味合いを含む部分。信仰に篤く、食したものを糧として次世代に繋ぐ女神の側面。両方の性質をそっくりそのまま伝える巫女のような立ち位置です。
 ちなみにお腹に小麦を丸めたものが詰まっている描写は、食人文化の代替みたいにできたやつらしいですね。色々調べていて興味深く、これをそのまま不気味だねで書くと文化そのもの、歴史そのものの否定みたいでしっくりこなくて、不衛生を不快に思う、そういう怖さの方面で描きました。おかげで自作によくいる着眼点がズレた主人公が出来上がってしまいましたね。tamaさんのお話とどこかで繋がっているよ! どれかな? 見つけてみよう!

 

 七十四:愛されるべき金魚
 絶対一話は金魚の話を書きたかったんですよね。これは人間と金魚の話です。
 もともと、この「オクサリサマ」というのは「あしびき」と同じでホラゲー用に作っていた創作妖怪です。元ネタは「尾ぐされ病」という魚の病気です。水質が悪くなると繁殖する菌が起こす病気で、尾ヒレが白く濁って、だんだん扇状に裂けて最後は衰弱する、という病です。
 最初はゾンビパニック的なノリのつもりで、尾ぐされ病にかかった金魚のいた水が粘膜に触れて特殊変異した細菌によって人間の皮膚が腐って裂けてしまい、それが広がっていく話のはずでした。でも、肉体的な恐怖ばかりだと味気ないし感染系もいっぱい書いたので、どうせなら醜い人間にはかわいい金魚になってもらおう! と思いました(?)
 自分の細胞が侵されてしまい、認識が金魚のままでまだ人の形をしている人間──というのは、読者や彼の周囲が感じる恐怖なんですね。もう金魚である石山少年は、自分が金魚であることに恐怖は抱きませんから。
 そして、これは金魚としての恐怖の話でもあります。人間がいっぱいいて、大声あげたりして落ち着かない。うまく前に進めないし、なんか少し息苦しいし、みたいな。人間の観測することのない、魚目線の恐怖を見せられたらなと。よくわからないもの(布)で包まれていて気持ち悪いな、とか。
 あと、よく怒られるのですが。人間の尊厳を壊すためにはやはり人前で排泄をさせるしかないんですよね。身近な恐怖です。人間のままならトラウマ確定ですが、思考が金魚なんでそれが怖くないっていうズレも描けました。金魚ってフンをしたらふよふよと流れていくものですから、それが身体についたままなのも石山金魚には不快だと思います。
 どうでもいいのですが、元ネタの病気が薬湯治療を根気よくやって治すものでして、石山金魚も温泉に毎日浸からせていると次第に皮膚の下から突き破ってくる鱗が治っていきます。まあ、そういう文献や伝承が残っていて、それを彼の周囲の誰かが発見できればなのですが。そして、思考回路が戻るかはわかりません。
 でも「カプグラのマリア」でも描いた通り、見た目が人間らしく戻れば、人間として介助されて暮らしていくのかもしれません。彼の中身が、精神性が金魚に侵食され、そのものであることを現代の医学では改名できませんから。真意や思考が彼のものであるかどうか、確かめる術はありません。古来より呼ばれた「狐憑き」だって、ほんとうに狐が憑いていない確証はないじゃないですか。医学的に名前をつけて、安心しているだけかもしれない。怪異は名前を与えられると噂をされて強くなる場合と、理解したということで一段落つく場合がありますよね、名前付けに関してはmeeさんの98話を読んでください。
 石山金魚はパンが食べたいだけです。欲求とその解消をするだけの回路です。それが人間と何が違うのかなんて、誰にもわからないのです。私も寿司が食べたくてそれ以外もう絶対嫌、寿司を食べるまではなにもしたくないみたいな時ありますからね。
 解決法まで思いついていても書かないことを選びました。これはそういう話ではないので。

 

 七十七:ひと夏の記憶
 ずっと温めていたネタです。物の思念を考える時、ボヤ騒ぎがあった家などはその熱を覚えているのだろうか、というお話。私は霊が出る場所が寒いのは、あちらとこちらを繋ぐ境界が真空状態になることによるものだと思っているのですが(?)それと組み合わせたらトラップになるだろうなという邪悪な思い付きからこのお話が生まれました。これも火傷した時の水膨れを思い出しながら書いた半体験談です。
 さっくりと状況だけ書いたけれど、その状況は想像するとなかなかに理不尽で恐ろしい。今後この場所は危険だと語り継がれる場所になる、怪異としての箔がつきはじめる瞬間を描いてみました。

 

 七十九:作業用雑音
 一作くらい楽してもいいかな、という邪悪な思い付きから書きました。さっきから邪悪すぎる。三十三作書いた自作の中から悲鳴などを抜き出してラジオにしてみました。
 作業用に聞き流すものって静かな音のほかに、聞きなれている音っていうのもあるじゃないですか。きっとこの主人公はそういう人なのでしょう、と思うとさらに嫌ですよね。ある意味本領発揮の一作。

 

 八十一:だご、はいつ頃啼くか。
 イゴーロナクだよ! なんか嫌因習村に嵌められそうになるよ。嫌因習村って当て字とかあるよね(?)

 

 八十六:ガッコウノカイダン
 多分一番痛くて救いが無さそうな話。浦島太郎感もある。
 meeさん作品の二階と藤田が出てくるよ。

 

 九十二:とある学生の投稿作品
 後味最悪系です。匣から始まる一連の封印されたもの、呪いの伝播について、卒業文集で振りまく潔さ。

 

 九十三:私の彼は魅力的
 ま~たニャルが。これは友情より恋愛を取る残酷さの話。

 

 九十九:ものかきといふばけもの
 ペオルで聖書を読みすぎて語り口がうつった。自分を神だと思って人類に警告しました!(?)

 

 書き途中だったので無理矢理書き終えました。文章量に差が出すぎ!
 とにかく文フリに間に合ってよかった……!