室内人類学

犬歯の短小化が起きていない=人類ではない

穴を埋める女

 meeさんのお誕生日のお祝いに書かせていただきました。お祝いかこれが。

 

    *

 

 

 ここはゴミ箱なんだね。とあなたが言った。
 庭に大きな穴をくつろげて、私はそこにいらない原稿用紙をばら撒いた。そうかもしれない。そんな気がしてきた。
 私が穴に落としたのは夢だ。小説家になるために生まれてきたような気がしていたけれど、そんなことはなかったから捨てた。誰かの心を揺らしたり、奮起させたり、悦ばせたりする言葉の魔法は、大人には効かないことをずっと黙っていてごめん。大人の心は硬いから、指なんてか細い攻撃は弾かれてしまうんだよ。
 文字をいくら書いてもあなたを救えそうにないので、私はこれを捨てた。朝のいってきますのメモみたいに、既読のつかない晩御飯の写メみたいに、文字って馬鹿みたいね。何も伝わらないから。なにも信じてないつもりだったのに、私は愛と言葉っていうくだらない宗教をずっと信じ続けていた。もうずっと、休まず十字架を背負っていた気がする。その重たい荷物をおろしたら、なんだか少し気が楽になった。あなたは曖昧に笑っていた。お腹はぽこぽこと鳴った。

 

 次の月に私は、穴の中へ蒐集品を捨てた。これが想像以上に多く、日曜の度にスコップを持ち出す羽目になった。木の根を掘り返したりして立派に広がった穴たちに満足すると、これはとっておこうかなと思っていた品物まで捨てたくなってくる。本棚をひっくり返して、何度も読み返した本を捨てた。もうすぐ訪れるクリスマスの━━もう連絡先も知らない、友達でもない━━友達にもらったオーナメントを捨てた。ついでに、父から譲り受けた机や、妹に押し付けられたコーヒーミルも捨てた。アルバムも、手作りのアクセサリーも、弾きもしないのに買った楽器も、なにもかもを捨てた。
 部屋も、心も、隙間を開けないと対抗できなかった。それだけ押しつぶしてくる圧力に負けそうだった。あなたはその時も、無理してはいけないよなんて、とてもきれいに笑った。

 

 ツリーのないクリスマスは久しぶりだった。クリスマスプレゼントは与えてくれるものだと思っていたけれど、大人になると贈る側になる。考えて見れば当たり前の話だ。
 私は書斎だった場所に横になっている。彼の買ってくれた大きなベッドに寝転んでいる。捨てた本の代わりにと、彼の両親がクリスマスプレゼントにくれた本を並べて写真を撮るのに疲れてしまった。もう少ししたら小さなベッドも届く。晩御飯は作らなくてもいいよ、とメッセージが届いたけれど、私は返事をしなかった。昨日はそんなメッセージなかったから、あなたの食べなかった晩御飯を、私は庭の穴に捨てました。

 

 あなたに、穴って形も深さも一つとして同じものはないのだと、ご両親は教えなかった。そういう場合は、きっと私が一時ママになって教えなくてはいけなかった。庭に掘ったあの穴たちがどれも別々のものを入れるために掘ったように、どれも違うものなのだと教えてくれる人がいたら良かったね。地面もそう。地面にとったらそこにあるべきは土や虫や花だったものだから、ゴミなんて入れられても困っている。そんなこと、わかるわけないか。
 私のお腹だって、美味しいお魚や香りのいいワインが入るためにあるのに、どうしてこの子が入っているのか不思議がっている。そう言うとあなたは大げさに笑った。そこは元から、子供が入るところだよ、って。
 前の奥さんは違ったでしょ、と喉まで出かけた。彼は子供が大好きだった。自分の両親が手に入れられなかったからなのか、血は繋がらずともそれを受け継いだらしかった。子供が欲しくて欲しくて、そういう寂しい穴を似たようなものが埋めてくれはしないかと願っているみたいだった。だから*機能*のある私に縋っているのだ。
 彼のご両親も、私の赤ちゃんでその穴が埋まると信じているらしかった。神様はいないってこと、願う様に信じてはいけないこと、私は何度か書いたけど、まあ読んでいないからわからないのも仕方ない。
 ねえ。要するにだから、この部屋だって活字と紙と、パソコンと、私が文章を書くためにあったんだよ。それ以外のものを置いたら困ると思う。ここからは庭の穴がよく見えるから━━多分、ベビーベットとか、ぺっと吐き出してしまうんじゃないかな。

 

 これでわかったでしょ、と私は娘を抱きかかえながら思った。彼のご両親は泣きじゃくる頃の彼と出会ったことがないから、*無理*みたいだった。彼も優雅に微笑むことしか得意じゃないから、赤ん坊の吐き戻しにつられてトイレに駆け込んで行って、そのままぐったりして眠ってしまうことが殆どだった。
 たまにはゆっくり君のご飯が食べたいな、と居酒屋から帰ってきたあなたが言った。さて、たまにはって何年ぶりを言うのか私にはわからない。付き合いたての頃くらいからだから、二年──、明日で三年になるのか。
「穴ならあるよ」
「穴なんて食べられないよ。君までおかしくなるのはやめてくれ。ただでさえ、子供が狂ったみたいに泣いているのに」
「子供はこれで正常なの。泣いてない方が怖いんだよ。そうじゃなくて、手間暇かけたご飯を私が作るなら、××を庭の穴に捨てるしかないと言ったの」
「なんてことを言うんだ! 明日からは僕が食事を用意するから、どうか、弱気にならないでくれ」
 あなたは美しい瞳から、はらはらと涙を零した。その涙も後で拾って捨てておかないと大変だって、教えてあげるべきかもしれない。
 彼は毎日コンビニでパンをひとつ買ってきた。私の分を、ひとつ。眠った娘の頭を泣き笑いのような表情で撫でて、そのひんやりした手に娘がぐずると、まるで大罪人みたいに逃げ出していく。
 この人は*もうだめ*だ。この人は穴ぼこだらけで、もう、自分の栄養を保っていられない。その穴は私では埋まらないから。すやすやと眠るだけのほっぺの柔らかい赤ん坊でしか満たせなかったから。そんなものはおとぎ話だったから。だからもう、どんな言葉でも救えない。

 

 悲しい穴を埋めるのは不可能だ。手に入れられなかったものや、失ったものは戻らない。タイムスリップができないから、まったく同じ時間は訪れない。
 あの友達ともう一度友達になることはできない。死んだ人は黄泉帰らないし、若い美しさも取り戻せない。愛してほしかった朝も、慰めて欲しかった昼も、大笑いしたかった夜も、もうどこにもない。誰にでも優しくしたいのに日に日に嫌味っぽくなって、大事なものを守ろうとする時はみんなが敵に見えてくる。
 でも、時間に逆らえないから、私たち大人をやるしかないんだよ。与える年になったら、今度はなにもできない老人になるまで、受け取るだけの人には戻れないんだよ。小説を書きたいのに、いくらだって書きたいことがあったはずなのに、書きたいものがわからなくなる。なんでも自分よりうまい子がどんどん出てくる。それらが私を書けなくしたんじゃない。私を忙しくした私が、身体中に穴を開けて、言葉が零れ落ちていくように工夫していたんだ。

 

 だから私たちが生きていくには、体積を増やすには、穴はもうどうしようもない。喪った肉の分だけの突起を増やしていくしかない。力を込めて、血液の中からアンテナを出して、*あったはず*なんていう幻想から電波を逸らして、他の、もっと別のものをキャッチするしかない。
 例えば知らない人に向かって書き続けていた言葉を、家族に向けていくとか。例えば彼の何倍もの愛情を娘に注いで補うとか。例えば、がなかなか出てこない。道理で売れないわけだ。逆に、穴でパズルをしていけないことはいくらでもわかるのに。
 例えば、かわいいドレスを着れなかったからと娘に着せたり。例えば、運動会のお弁当にフルーツが欲しかったから、娘のお弁当には毎日入れてあげようとか。家のことで友達と遊ぶ時間が少なかったから、娘にはなにもさせないとか。
 例えば、こんな女になって欲しくないから本に触れさせないとか。彼のようにきれいなだけの人を捕まえては苦労するから、男って生き物について、偏った教育をするとか。
 そういうことでは私の穴は塞がらなくて、娘の身体を蜂の巣にするだけで。
 例えば、殆ど顔を合わせなくても十年保てばマシなほうで。
 例えば開いた口は塞がらなくて。
 例えば、庭の穴にすっぽり埋まってしまったり、して。

 

「ママ。パパがおっきなゴミ箱で寝てるんだけどお」
 夕食の支度をしようと、帰宅してそのままキッチンに向かった私を、娘が子供部屋から呼ぶ声がする。そこからは*庭の穴*がよく見えるから、彼女はおっきなゴミ箱を指さして、私を振り返る。
 今朝は出社して行ったはずだった。私が学校までこの子を送って、パートに行って、買い物をしてお迎えに行って帰ってくるまでの間に、あの人は帰宅していたらしかった。
 私の美しい人は冬晴れの空の下で大穴の中に寝転んでいる。まるで、私にとって彼がまっさきに捨てるべきものであったかのように。自分の子供が、思い描いたように愛おしいものではなかったという絶望ごと、世の中を捨ててしまったように。すっきりした顔の彼を見せるのが憚られて、私は娘をやんわりと諭した。そして、彼の横に捨ててあった未完成原稿やアイデアノートを拾い上げた。

 

 彼が私たちに大きな穴を残してからも、私たちは変わらず同じ家に暮らしている。ぽっかりと穴の開いた彼の自室は娘の部屋になり、子供部屋は私の書斎に逆戻りした。自分で書いたものを否定するようで癪だが、部屋だけは失った家具を取り戻せるらしい。捨てる神も拾う神も自分だなんて、馬鹿げた話だ。
 家計の穴は、私が必死になって、なんでもやって埋めている。娘の心は、とりあえずは今のところ油彩画が埋めているらしい。形のまるで違う穴にねじ込むようにして、絵を描くことに打ち込んでいる。彼のご両親とはまるきり連絡が取れていない。私の両親は、随分と昔に地元の穴の中だ。

 

 私はつまらないホラ話や、炎上マーケティングなどを手伝って彼女を育てている。大人の心は動かないなんて言ったけれど、あれもまるきり嘘だ。
 大人は怒る時、笑う時や悲しい時の何倍も簡単に心を動かす。呆れたことも、哀しいことも、苦しいこと辛いこと、全部を怒りにひっぱられてしまうところがあると、知っていた。美しい言葉を並べるよりも、垂らした針に引っかけて傷つける方がよっぽど楽だ。
 楽だから、やりたくなかった。言葉と愛を信じていたから。
 それでも今は、何よりも安っぽいものが一番大切なんです。くだらない三文小説が、はした金が大切なんです。これしか武器のない私は、この包丁一つで世間のあらゆることから、娘を守らなければならないんです。
 そう言ったらあなたは怒るかな。私の文章を褒めてくれた、好きだと言ってくれたあなたは。昔、一緒に同人誌を出したこと、夢みたいに嬉しかった。そのことだけは、きっと穴ぼこにはならないと思います。昔みたいに、ボツにしているネタなんて、もったいなくてありません。なにも捨てられず、動けずにいます。
 それらの素敵な、輝かしい思い出すら、千円に満たない文章にしていることを知って、あなたは溜息をつくかもしれません。それでも、こうしてお話にさせて頂いています。ありがとう。ごめんなさい。
 穴埋めのページをいただいて、そんな話をここに書かせていただいています。

 

                          マルヤロクセイ

 

/穴を埋める女

恋とはどんなものかしら

 

 小型バスは山道をゆっくりと走っていた。「博愛観光」と記されたそのスリムな車体はくねくねと曲がるカーブを順調にこなし、温泉街に向かって進んでいく。満員の車内ではぴったり同じ数の男女が飲食をしながら談笑し、親睦を深めていた。二十四名の乗客、彼らの目的は等しく、バスが進む先の旅館にある。
 その中に一人、周囲に目もくれず窓の外を眺める男がいた。鈴原怜司。他の乗客にある期待が彼にはまったくなかった。隣に座る女性が居心地悪そうに話しかけるのも無視して、男はぼんやりと今に至る経緯を思い返していた。

 

 鈴原が同僚の岡田に頼まれたのは、応募してしまったバスツアーに彼の代わりに出ることだった。キャンセル料が妙に高く、払うくらいなら代役を立てる方が賢いし、焼き肉くらいなら奢るからと強引に押し切られたのだ。要するにそのキャンセル料とやらは、面倒くさがりの鈴原を説得して焼き肉を食わせてやることの方が楽に思える金額なのだろう。
 それもそのはず、岡田が応募したのは、鈴原でも名前を聞いたことがある三ツ星高級旅館の格安宿泊プランだった。各部屋に露天風呂が完備され、ミシュランガイドにも乗った有名料亭で修業したシェフの食事が三食ついてくる。それで一泊三千円。
 当然そんなうまい話はない。バス内で恋人同士になった乗客だけが宿泊でき、その他の乗客はそのまま駅までトンボ帰りという条件があるツアーだ。
 クリスマス前の話題作りだろうか。あの旅館に泊まれるなら、いくらでもその場しのぎのカップルになる人間はいるだろう。実際、岡田には妻がいたはずだ。鈴原はというと、そこまでして一冬の恋人を作るようなつもりはなかった。キャンセル料を取られないために参加し、帰ったら焼き肉を奢ってもらう。それだけでも休日の元は取れる━━はずだった。金髪のバスガイドが、たどたどしく趣旨を説明するまでは。

 

「それではあ、そろそろこのラブイブバスツアーについてご説明いたしますねえ。みなさん、ドキドキウォッチは付けて頂けましたですか? はあい、車内の全員がつけてくださっていることを確認しておりまあす。そちらで心拍数と脳波をはかってるです。お相手が決まりましたら、ドキドキさせてポイントをデポジットしてくださいです」
 鈴原は右腕を見る。自分も普段利用している、所謂スマートウォッチと大差はないように見えた。ディスプレイには時間と日付、心拍数が表示されている。62━━それが現在の彼の“ドキドキポイント”とやらのようだ。
「たくさんドキドキすればするほどポイントはデポジットしていくです。貯まったポイントは意中の相手をドキドキさせることができる素敵なアイテムと交換ができますですよ。ドキドキウォッチではあ、最新の技術で気持ちがぴったりホットに重なったお相手が確認できまあす。そうすると、なんと二人のウォッチがハートマークを表示してカップル成立。“あがり”になります!」
 まるで体験型ゲームの説明だ。鈴原は手首に巻き付いた白い無機質なそれを再び見る。ドキドキすることと恋愛とに直接的なつながりがあるとは思えないが、面白おかしく可視化するためには必要なのだろう。
「ここからはより詳しい説明でえす。ツアーをおりることはできません。気の合う二人組をメイキングしてくださあい。それだけがルールでます。あなた方は恋をしなければなりません。恋をすることはあ、大人になることです。大人になるということはあ……子供を生むか、施設から引き取るかして育てる、ということなんです。人間は親になるために、そのために大人になるんですよお。生きる意味に背いてはだめなのです。正しいサイクルを作るために必要なことでえす。みんなで手をつないで、誰にも差別されないハッピーな輪っかをつくりましょう」
 そういうことか、と鈴原はつぶやきそうになった。岡田のしたり顔が見えてくるようだった。こういう趣向のゲームだったなら、今から動き出すには遅いように思える。知っていれば隣の女性と会話をしていたかもしれない。
 ただ、どちらにせよ傍観を決め込む準備だけは出来ていた。車内のどよめきを見るに、鈴原と同様に騙されて参加した人間も多いようだ。道理で乗り込む際に運転手が憐憫のような目をして「ご武運を」などと言ったわけだ。
「旅館につくまでにい、みなさんはハートマークの二人組になっていてくださいねえ。年齢も性別も国籍も、恋の間ではすべてが関係ありませえん。ですが多様化を認めるということは、ルールの範疇で認めるということ。ハートマークが出なかった方は、哀しいですが……責任能力ゼロとして処分させていただきまあす! ご安心くださあい。もちろん今までに生き残った方々もいらっしゃいましたあ」
 処分。妙に無機質な響きだ。男たちはバスガイドの言葉を馬鹿にして自分の精神の強さを誇示し、女はというと怖がるふりをしてもう目当ての男にすり寄っている。鈴原の隣の女性は信じているのか、血相を変えてきょろきょろとしていた。


 赤い上下のスーツに身を包んだ、小柄の美しいバスガイドが右側に掌を差し向ける。
「右手をごらんくださあい」
 誘導されるように窓の外を見れば「博愛観光ご一行様」の横断幕が無造作に木々にかけられている。いってらっしゃい、と他人事の言葉が添えられたそれは所々が黒く変色していた。誰かが大声をあげる。悲鳴が連鎖する。
 木々に結びつけられた壊れた人形のようなものを見た。赤茶色や黒っぽい肌の不気味な人形は、至る所に損壊の形跡が見られる。ご丁寧に骸骨のオブジェや、錆びた包丁などが落ちている。バスは走っている。窓越しではじっくりと観察することはできない。
 けれど鈴原には十分だった。偽物か本物かよりも、言葉選びや催しの演出の仕方だけで十分だった。性別も国籍も関係ないという割には男女が半々用意され、バスガイド以外は日本人しか乗っていないバス。年齢もだいたい同世代だ。たかがゲームとは言え、恋愛の強制なんて馬鹿げている。なにより、そんなペアに親になれとは笑いも出てこない。自分たちだけではなく、その子供の人権すらどうでもいい、そう言っているように聞こえる。ゲームの主催者が炎上していないことが不思議なくらいだった。
 それは十分軽蔑に値するもので、とてもではないが鈴原には付き合い切れなかった。彼はバスを停めてもらうよう手をあげようとした。その前に、隣の女性が駆けだした。
「私、そんな恐ろしいことできません。彼氏もいるんです、下ろしてください」
 バスガイドに詰め寄った女性を応援するように車内が急激に騒がしくなる。怒号が飛び交い、何人かの男が━━力に訴えるつもりなのだろう━━通路に出ようと身を捩らせたところで、バスガイドがしずかな声で言い放った。
「恋人がいるのにこんなツアーに参加するって、恐ろしくないですかあ?」
 理解しあってそういう交際をしているやつらだっているだろう、とは鈴原も反論しなかった。女性の発言も、鈴原に頼んだ同僚の岡田も恐らくそうではない。そのことに関してはバスガイドの言葉は初めて共感できた。ただ、だからと言って制裁していいかというと、それに対して怒っていいのは相手だけだろう、とも思う。
「私、そんな恐ろしいことできませえん」
 バスガイドが金髪のポニーテールを揺らして、意趣返しとばかりに、にたりと笑う。彼女が掲げるドキドキウォッチに「Disposal」と表示される━━廃棄。甲高いモーター音。ぶつ、という鈍い音。鉄さびの匂い。コイルが焼ける匂い。エンジンそのもののような、匂い。


 瞬間、ガイドに詰め寄っていた女性は通路の真ん中に倒れていた。ノースリーブから覗く腕から肩にかけて、赤い血管が浮き出たような“しるし”ができている。身体は倒れたまま、魚のように痙攣している。わ、と周囲の座席の人間が後ろの席、鈴原の付近まで逃げ込んできた。その中で一人、勇敢な男が前方に向かって近づいていった。
「やめ、」
 声が出ない。出さないといけない。鈴原にはわかっているが、出ない。誰かが「バトロワみたい」と言った。「死んだのかな」「あの人医者?」「じゃあ任せておこう」「やだあ、こわい」とざわめいた。本当のことを言うと、知らないふりで黙っていたかった。しかし鈴原はここで声を荒げることを選んだ。緊張で指がかたまり、拳を握りながら、大声をあげる。
「やめろ……!」
 視線が鈴原に集まる。男も振り返り、立ち止まる。倒れた女性はしばらくの間びぐびぐと鈍く震えていたが、やがて動かなくなった。まるで鈴原が見殺しにしろと命令したように、周囲の目には映った。
「あ、……感電、してた……から、触ったら……危ない、から」
 声を絞り出す鈴原に怪訝な視線が降り注ぐ。
「でも、さっきならまだ助けられたかもしれない」
 と、誰かが口にする。
「だから……っ、だから。感電してる最中はダメなんだよ、多分、この時計が、ダメ、で……ほら、AEDとかも、そうだろ……!」
 今度は、鈴原から人が離れていく。乗客全員が磁石の逆側を手にしているみたいに、つっぱねられる。
 驚愕に目を見開いた肉塊を一つ生み出して、ようやくバスの中が静まり返った。乗客たちが口を噤むと、バスガイドは満足そうに微笑んで、先ほど女に掴みかかれられた部分の、スーツの皺を伸ばした。それは彼女の今までの言葉が真実だったことを表していた。
 そうして、鈴原怜司は深呼吸を一つした。ドキドキウォッチを操作する。自身の心拍数は110まで上がっている。やはりポイントが付与されていた。

 

 

 

 バス内の雰囲気は一変した。既に意気投合していた乗客たちは何人かづつの塊になって、なんとかいい雰囲気を作ろうと互いに励まし合っている。そのグループでリーダーのような振る舞いをしている人間たちは状況をきちんと理解していた。既にパートナーがいる人間にとっては、この観光バスは魔女狩りのような場所になり果てた。そして男性にとって、現在このゲームは不利だった。
 まず、女性が一人失われた状況で何人かの賢い女は自分が選ぶ側に立ったのだと認識した。彼女らを中心に女性のグループが生まれたことで、美人か、気が強いかどうかでその中でも優劣がつく。見事女王として君臨した女は、取り巻きと、そこにへつらう男たちを手に入れる。それをうまく使い、ゲームを有利に動かそうと画策し始めた。
 男の方も、ナンパがうまそうな男を中心にグループが出来上がる。さながら学校なんかでよくある、クラスの美男美女を中心とした勝ち組のカースト図だ。女王と王子の交渉を見つめる乗客たちは、その二人がくっついた後に取り巻き同士でつながり合おうと互いを見定めている。自分と一緒になるとどれだけのメリットがあるか、そういうことを順番に発表し合っている。リーダーよりも目立たないように、けれど虎視眈々と。

 

「ごめん、そこ、いいかな」
 鈴原がウォッチの画面をスライドさせて表示を眺めていると、王子の男が声をかけてきた。指で鈴原の座席を示す。
「どこか別のところへ行けって?」
「いや、違うよ。画面を操作しているとわかるけど、ポイントで交換できるアイテムが各座席の下に入っているらしいんだ。交換すると、座席番号がわかるよ」
「ああ、そうなんだ。わかった」
 鈴原が席を立ち上がると、男はその座面にドキドキウォッチをタッチする。電子音が鳴ってゆったりと座面が持ちがあると、水色の小箱が現れた。
「なにそれ?」
ティファニーの指輪」
「へえ。あげるんだ。女子は喜びそうだな。一抜けか?」
「そう簡単にいくといいんだけどね。それより、さっきのって本当? 感電中は触っちゃいけないとかって」
「多分、コナンか金田一でそんなこと言ってたと思う」
「そうなんだ。気を付けないとね。何かあったらまた聞きにきていいかな」
「いいけど」
「ありがとう。お互い、恋人ができるといいね」
 男は愛想よく鈴原に笑いかけると去っていく。気を付けないと、という割には王子は最初の女が感電した際に助けに入ってない。自分が助言して命を拾った男もまた、鈴原に助け船は出さなかった。ただ、この二人からは多少の信頼は得ているはずだ。それがどこかで還元されることを祈って、鈴原はできるだけフランクに接した。
 この後どういう展開になるか、鈴原にはだいたいの流れが掴めていた。まず、この山道では電波が繋がらないため通報はできない。それを見越した上でバスがここを走っていることは明確だった。仲間になろうと誘う男グループの一つに無言で苦笑を浮かべて断ると、鈴原は画面をスライドする作業に没頭する。ティファニーの指輪は16ページ目にあった。

 

 わずかに開いた窓から硫黄の匂いが漂ってくる。結局最後の500ページまで鈴原が確認する頃には、バスは温泉街にだいぶ近づいてしまったらしい。このスライドがかなり面倒で、やみくもにページを捲ることはできない。後ろのページに行けばいいものがあるとは限らず、300ページから10ページの間、交換アイテムに文房具が並んでいた時などは、鈴原も一度心が折れそうになった。
 そんな風にページ送りに鈴原が没頭している間に、車内はというと混乱を極めていた。100ページ以降にちらほらと存在していた交換対象にある武器。その中で拳銃を手にした気弱そうな男が、車内の実権を握っていた。
 自分の心拍数がそのままポイントになるならば、もっと簡単にポイントが手に入れられた。呼吸を止めてみる、自傷してみる、いくつか方法があった。実際にそれらを試しても鈴原にポイントは付与されなかった。けれど、鈴原が大声をあげた時には付与された。
 つまり、自分の行動によって他人の心拍数が上がると付与されるのがドキドキポイントなのだ。それがわかると後は簡単だ。今視界に映る男のように、脅迫によってポイントを集めればいい。このゲームは対立を生み出すことを前提としている。平和的にプレゼントのやり取りをすることよりも、ポイントを貯めて相手を奪い合うことが推奨されているシステムなのだ。
 鈴原はポイントを使用していくつかの座席の解放権を入手し、息をひそめて付近の座席だけを周る。座席の下以外にも背もたれの後ろや床下など、ありとあらゆるところにアイテムは収納されていた。
 次に鈴原が調べたのはカメラの所在だった。これだけ莫大な資金が動いているなら、映画などではこの光景を見て楽しむ存在がバックにいたりするものだが、どうやらそれはないようだった。閉鎖された状況。このゲームが行われる理由は一体なんだろうかと考える。
 恋をしろ、とバスガイドは言った。高級旅館というわかりやすい釣り針にひっかかった人間たちに、親になれと言った。ガイドは「今までも」と言っていた。二回目ならば「前回も」と言うだろう。少なくとも三回以上は行われているゲームだと思っていいだろう。
 そして、それはこの主催者が今まで逮捕されていない、もしくは逮捕されても別の人間が主催するシステムが整っていることを意味していた。時計を外すことも試みたが、画面に「Deprecation(非推奨)」と表示されたので、鈴原はこの選択肢を早々に放棄した。最初にバスガイドが全員の時計装着を確認していたことからも見張られていると考えるべきだ。ゲームをおりるということだけが、それだけが許されていない。
 鈴原にこのゲームの勝ち筋は見えていなかったが、何をしたら詰むかはなんとなく掴んだ。確かに脅迫はポイントを集めるには有効だ。ただ、拳銃には跳弾の危険があり、さらに━━。
「あ、ごめ、ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
 人数で抑えられると勝てない。暴力は圧倒的でない限り人の反抗心を煽る。もしも拳銃を手にして勝ちたいなら、銃弾を確保しておかなければならない。そしてまず何人か撃ち殺して恐怖を与え、目当ての人間以外は全員殺すつもりでいなければならない。最後に残った人間はそいつとペアになるしかないから、時間さえあれば、ストックホルム的に恋が生まれる可能性もある。
 だから、武器さえ持っていなければ勝てそうだと思わせた時点で、その選択は負けなのだ。鈴原の読んだ通り、女王の親衛隊によって繰り広げられる一方的な暴力の餌食になる。こうして正義という大義名分を与えられた暴力は、見る側に奇妙な興奮や恐怖を植え付ける。どちらにせよポイントは配分されるものだから、力自慢の男たちはこぞって制裁に加担した。
 その中で王子は動かなかった。こういう状況で力を振るうことを、強さや頼もしさだと女が思わないことよく知っているようだった。王子は女王を抱き込むようにして、その光景を見せないように庇っている。鈴原は感心した。あの男は、立ち回りが賢い。
 顔が陥没した哀れな男をなんとか救おうと動いたのは、最初の犠牲者の時にも立ち上がったあの男だけだった。鈴原は逡巡し、仕方なく通路の真ん中に転がる瀕死の男を座席に引き上げる手伝いをする。
「うわ!? あれ、さっきの……あの時はありがとうございました。俺も死んでたかもしれない……」
「いや、俺も漫画で見て知ってただけですから」
「へえ……漫画で。えっとこれ。高村です。もしも生き残ったら、お礼させてください」
「まあ、生き残るためには誰かとカップルにならないといけませんけどね」
 鈴原が座席に寝かせた男の血を拭いていると、目の前の穏やかそうな男が名刺を差し出してきた。その際に財布の中身を盗み見ると、かなりの金額が入っていた。名刺を見ればその理由もわかる。
「社長さんなんですね。それ、言えば勝ち上がれるかもしれませんよ」
「今はみんな正気じゃないから……なにをしても逆鱗に触れそうで」
「なんだかわかる気がします」
「ちなみに、君は正気と思っていい?」
「ドキッとしたでしょ」
 高村は鈴原を見て素直な感想を告げる。改めて鏡で自分の姿を見て、鈴原もその感想は当然だと思う。実際にポイントを付与されたことからも、高村を驚かせることに成功した。やはり、他人の心拍数をあげることでポイントは付与されるのだ。
「しました。びっくりの方ですけど。どうしてそんな恰好を?」
 鈴原はポイントを少しづつ消費してメイク道具やワンピースを入手し、着替えていた。気が狂った人間か、哀れな人間か━━その判断は相手に委ねるとして、鈴原の狙いは自分が脅威ではないことを相手に知ってもらうことだった。ポイントをわざわざそんなものに交換する。自分は敵意がない。そう感じ取ってもらったうえで、驚かせてポイントを回収する。
 無論、生理的に嫌悪される可能性もある。急に女装しだす男なんていじめの標的になってもおかしくない。けれど、今のところバスの雰囲気は辛うじて正義を重んじている。可哀相な男を吊るし上げることで得られるメリットは、軽蔑されるデメリットを凌駕するとは言い切れない。今のところは安全だと鈴原は考えた。おさわり禁止物件だとでも思われていれば、ちょうどいい。
「びっくりさせて……ポイントを貯めて……何と交換するんだい?」
 いつの間にか敬語が外れた高村に、鈴原も調子を合わせる。
「お金。男女関係なく支持を得られるかな、と」
「そういうのも交換所にあるんだ……確かに。でも、奪われたりしないかな」
「かもしれない。だから高村さんも言い出さないんだろうし」
 苦笑する高村に、鈴原はスカートをめくってみせた。
「すね毛も剃った」
 鈴原は高村の表情を、針のような視線で窺う。高村は目を丸くして固まった後、噴き出した。
「あはは。っと、危ない危ない。大きい声が出ちゃうところだった」
 すぐさま鈴原は腕に視線を落とす。高村が驚いたのか、ポイントが付与されている。しかし、笑わせてもハートマークは表示されない。気が合うことがカップルの条件だとバスガイドは言ったが、この程度では恋愛と判定されないようだった。
 機械が判定するということは、あがる為に媚を売っても仕方がない、と鈴原は思っていた。乗客がみな相手の顔色を窺っているのは、目の前の危険のためだ。誰かに殺されないため。しかし、それではいずれ死ぬことが確定している。
 バスガイドは旅館につくまでに、と言った。時間が残されていない状況で相手に好きになってもらうことはまず不可能だ。そもそも時間があったところで誰かに好きになってもらうということは難しいことなのだと思う。吊り橋効果でドキドキさせるにも、この舞台設定が整った状況でまだ王子と女王にハートマークが浮かんでいないことからも、なにかしらの判定基準があるように思えた。
 ドキドキすることでポイントを貯められる。ドキドキさせればあがりではない。気持ちがぴったり重なることが条件と言ったが、まさか同じ心拍数になることが条件では確率が低すぎる。何かのタイミングで同じになることが重要ではあるはずだ。なにが?
「おい、犯罪者を庇うつもりか?」
 鈴原の後ろに屈強な男が立っていた。その男が突き付けたナイフの切っ先に、息が止まる。

 

 

 心臓も止まるかと思った鈴原はしかし、無事に生きている。かたや鈴原を驚かせてポイントを手に入れた男はというと、鈴原の膝にもたれかかっていた。こんな光景をあと何度見たら、このゲームを終えることができるのだろう。
 煙を放つのは、高村の手に持たれた拳銃。その凶弾はまっすぐ男の胸を貫き、口をぽかんと開いた男の涎が鈴原のスカートを濡らす。
「な、に……してん、だ……」
 高村は、自分の掌を見て不思議そうに首を傾げる。絶望したような、理解が追いつかないような半笑いの顔で、自身の手で奪った命を見下ろしている。咄嗟にさきほどの男の拳銃を手にしたのだろう。
「……高村さん、」
 そっと、鈴原は首を横に振った。悪くない。もちろん、自分を守ろうとしてくれたことが鈴原にはわかる。今までも何度も、怯えつつも人を助けようと動いた彼だからだ。ただ、冷静な行動とはとても言えなかった。少なくとも先ほどの男は殺そうという決心はついていなかった。自分の優位性をとるため、そして周囲に自分の正義感を示すためにナイフを手に取っていた。
 よほどの快楽主義者やモラルの欠如した人物でない限り、人を殺すということはなにより躊躇する行為だ。下手をしたら自殺をするよりもやりにくい行為である。だから、自分の命が危険に晒されているという極限状態でも、追いつめられても、その覚悟を決めることは難しい。それを覆すには「正当防衛」という盾と守るべきものが揃わなければいけない。高村にとって一度命を救っただけの鈴原がそうであったように、グループで信頼を深め合ったものたちもまた、条件をクリアしている。
 周囲の目はこちらを敵視していた。理不尽なゲームを強制し、最初に殺人を犯したバスガイドには敵対しないくせに。拳銃を持った男を寄ってたかって制圧したくせに。正当防衛しただけの、惨めな女装男を守っただけの男を睨みつけている。

 正確には、鈴原の背中越しに隠れてしまっている、銃を撃ったはずの存在を注視している。まるで初めて悪を見たような目で、視線で殺害せんとする乗客たちから彼を救う方法を鈴原は考えた。
 それは、彼が初めて犯したミスだった。立ち上がった鈴原の膝から死体が人形のように転げ落ちると悲鳴があがる。そのミスを取り返そうとしゃがみこんだ行動が、次の悲劇を生んだ。
 ━━銃声。
 背後に倒れ込む高村。その存在を感じながら鈴原が見上げた先では、先ほど武力制圧に加勢していなかった男が立っていた。傍らの女が銃を手にして震えている。女の方が撃ったということは、人を殺す決意ができているコンビだということだ。男は前衛、女は後衛と役割分担がなされている。射撃の反動で仰け反っていない女の方が、目の前の屈強な男よりも鈴原としては脅威だった。

「あ、ちが……」

 銃を撃ったとみられる女は、高村を狙ったものではなかったらしい。その証拠に驚愕した表情で固まっている。どうやら、さきほどの拳銃男が息を吹き返して復讐を目論んだと咄嗟に判断して、間違えたようだった。相手が誰かも確認しない状況で人が撃てる。それが、今のバスの緊張状態を如実に表していた。
 今度はその二人に向けて視線が集まる。堂々巡りだ。自分たちのグループを守るために出る杭を打ったコンビにも、疑心は向けられる。逆らったら殺されるかもしれない相手と、誰が恋などできるものだろうか。目に付いたやつから殺される。それでも鈴原は乗客たちに背を向けて、高村に声をかけた。
「高村さん……」
「ヘマしちゃ……った……鈴原くん、生き、て……」
「……馬鹿なことを……止血、止血しますから……!」
 鈴原はポイントを応急セットに交換しようと時計をスライドさせる。その手を、高村が掴んだ。

 例え人が死んだとしても、自分が生き残るためには仕方のないことだと割り切ろうという考えが鈴原にはあった。自分には関係ない。高村に言われずとも生き残るつもりだった。

 鈴原には高村の行動の全てが理解できなかった。鈴原が車内で浮いた時にすぐに声をかけてこなかったことからも、自身の長所のアピールができなかったことからも、高村は勇気がある人間とは言い難い。それなのに、自分が人を殺すことも、それによって敵視されることも織り込み済みで鈴原を庇った。それが、まったく理解できなかった。
「なにやってるんだよ、なんで」
「君は……俺より若いから」
 その光景が哀れっぽかったからだろうか。追撃はなく、車内は高村の死を弔うように黙っていた。鈴原には誰の感情も理解できなかった。自分たちで殺したくせに感傷に浸るような乗客も、自分より若いという理由で鈴原を庇った高村のことも。

 若いことになんの希望があるのだろう。裕福で才能があり、必要とされているから仕事に成功しているだろう高村が、こんなくだらないツアーに参加していることすら理解できなかった。
「あ……部下におみやげ買うって言っちゃったのになあ……」
 高村の目が濁っていく。感動した映画より、許せない史実より、鈴原は泣きそうになった。人が死ぬ。自分のために死ぬ。人の死というのは、病気でも老いでも事故でも、誰かのせいであったとしても、誰かのためのものではないはずだ。
 誰かのために人が死ぬなんてことが、この現代に存在していることを鈴原は理解できない。高村の胸を必死に押さえているが血は止まらない。こんなに他人の死を悼んでいるのに、ハートマークは時計に表示されない。

 それはそうだ。鈴原は別に、高村のことを好きにはなっていない。互いを好きになることでしかゲームをおりられないなら、鈴原も未だ死から救われたわけではない。
 高村を好きになってしまいたかった。そうして二人とも生き残れるなら、恋心なんて安いもののはずだ。


「しっかり、しっかりしてくれ……!高村さん……!」
「……もう死んでる」
 ぬ、と背後から声がかかる。背が高い女が不機嫌そうな顔で鈴原を見下ろしていた。マスカラが滲んで目をこする鈴原の手を、長い黒髪が絡んだ腕で、その女が握る。
「……な、なんだよ」
 女の横には別の女が立っている。おどおどとした茶髪の女がティッシュを鈴原に渡した。この二人組のことも周囲は監視している。その状況にあってわざわざ慰めに来ることを鈴原は奇妙に思い、二人をじっくりと観察する。
 生き残らなければならない。このどちらかとうまくカップルになるなどして、気を引けるだろうか。ただ、誰かに好きになってもらうことも難しいが、鈴原自体が誰かを好きになることの方が彼にとっては難関だった。なにせ、自分の命を救った男のことも好きになれはしなかったからだ。
「……っ、」
 鈴原は必死に声を殺した。二人の腕を盗み見ればハートマークが表示されていた。マークの下には「EMIRI」「KANADE」とある。両方女性の名前で、おそらくこの二人のことだ。この二人はあがっているのだ。この状況下でカップルが生まれたことも驚愕だが、あがってもバスから降りられないという状況に彼は絶望しかけた。
 そうだ、最初からこのバスツアーは恋人同士になったものだけが高級旅館に辿り着けるけるという趣旨だった。どの段階でカップルになったかは知らないが、到着までに他の人間たちからの嫉妬で殺されてもおかしくない。ゲームは鈴原が想像していた以上に難しいものだった。無事にバスをおりるためには恋人ができるだけではダメなのだ。
 だからこそ、二人はずっと目立たないでいた。鈴原にとっての彼女らが狂気の最中で傍観を決め込んで動かないでいる何人かのうちの一人だったことも、それを裏付けている。
「……ありがとう。これ、代わりになるかわからないけど」
 深呼吸をしてティッシュを受け取る。目元を拭いながら、鈴原は女性もののコートを二着、二人に与えた。それは鈴原が二人のハートマークを誰にも知らせないという意思表示であり、寧ろ時計の表示を隠すことに積極的であるということを言外に理解してもらおうという行為だった。
「……ありがとう。カナデ、寒そうだったから」
 背の高い女が傍らの女、カナデにコートを着させてやる。つまり、この女がエミリだ。エミリは自分もコートを羽織ると鈴原に向けてか、はたまた周囲に向けてか、申し出る。
「死んだ奴ら、移動させたいんだけど?」
 乗客たちは返事はしなかったが、道を開けた。そしてまた固まって会話をし始めた。なにせ死人に構っている暇がないのだ。最初の犠牲者の女性、リンチされた男、高村に撃たれた男、高村。男が三人減ったことで、女優位だった雰囲気が入れ替わる。焦りが見え始めていた。
 一番後ろのシートに遺体を移動させた鈴原は、その腕から時計を取り外す。またエラーが表示されるかと思ったがそんなことはなく、思っていたよりも簡単に時計が四つ座席に並べられた。心拍数の表示以外は鈴原のものと変わらない。
「……やっぱり、使えるのか」
「なに、してるの……?」
 カナデが震えながら鈴原を見る。エミリの方は小さく舌打ちした。
「最低だね」
「なんとでも言えよ」
「アンタじゃない。このゲームが」
 ああ、と鈴原は心底同意した。時計には“ポイントが残っていた”のだ。対立構造を煽るなんてものじゃない。最初からこのゲームは他人の時計を奪うことを踏まえている。時計は生きている内には外れなかった。つまり、殺して奪うことがゲームの攻略に組み込まれている。殺して奪ったポイントで送られたプレゼントや武器で脅したとして、相手を好きになれるかは甚だ疑問ではあるが。
 そうだ、と一層声を殺して鈴原は二人の女に向き直る。
「言い方に配慮がないと思うけど、二つづつ持っておこう。死人が持っていてもしょうがないから……俺、生き残らないといけないし」
「ホントにないね。でもまあ、もらっておく。それで、アンタはタダでくれるわけ?」
 ずけずけとしたエミリの物言いに鈴原はかえって安堵した。勿論死にたくないのは当然として、それ以上に目の前で事切れている高村の遺言が呪いのように鈴原に巻き付いていた。生きろという言葉がプレッシャーになってのしかかっている。
「お前ら二人は、どうしてそれが表示された?」
「どうしてって言われてもね。強いて言うなら、アタシとこの子は元から女しか好きじゃなかったからかな」
「てきとうなこと言うなよ。女しか好きじゃなくても女ならだれでもいいってことはないだろ」
 苛々して声が震える鈴原の手を握り、カナデはなんとか慰めようとしていた。その健気さに、鈴原は溜息を吐く。
「……なんか、守ってやりたくなる気持ちはわかる」
「やらないよ」
「ふざけてる場合かよ」
 ふ、とエミリと鈴原の苦笑が重なる。誰かと同じ気持ちになるという条件なら既に何度か満たしているはずだった。
「あの……ごめんなさい。その、人、私……黙ってて、看護師、なのに」
「カナデって言ったっけ。俺に謝られても困るよ。高村さんは死んじゃったし、俺とこの人は別にペアでもなかった。それに、高村さんよりお前は若いし、いいんじゃないの」
 カナデは小さく頷いた。自分を責めているようだった。あの状況で飛び出せばカナデとエミリは危険に晒されていただろう。互いに既に大事な相手がいれば、そっちを守ることが優先になる。そのことに関して鈴原は二人を責めるつもりはなかった。
「若いって?」
「高村さんが、若いから生きろって」
「変なヤツだな、そのおっさん」
「俺もそう思う。それで、二人にハートが表示された時のこと、詳しく教えてくれないか」
「詳しくったってね」
「私たち……最初諦めてたんです。たぶん、自棄になってカムアウトしたんですけど……まさかそんな偶然あると思わないじゃないですか。二人とも、なんて。それで、どういう相手がタイプかなんて、現実逃避に話しあってたんです……そうしたら、元々、私はエミリさんみたいな方が……って。エミリさんもそうで、それで二人で、もしかしたらうまくいくかもねって笑ってたんです。ほっとしたのかもしれません。突然、マークが出て……」
 エミリがカナデの肩を抱き寄せる。なんのヒントにもならないと鈴原は肩を落とした。最初から好みのタイプの人間がいた、なんてただの偶然。いや、いっそ奇跡だ。死んだ人間が四人、この二人があがっているから──残りの乗客は自分を抜いて十七人。厳密に言うと王子と王女は互い以外に心を許すには段階が必要だろう。それにあの戦闘を決意していた男女コンビも結束は固そうだ。そうなると、十三人。
 後ろで騒ぎが起こった。
「スザキ、ミヤノ! なんでてめえらが先にカップルになってんだよ!」
 銃を持った女と屈強な男──例の戦闘コンビを中心とした人だかりが出来上がっている。どうやら件の二人はあがったようだ。咄嗟にエミリとカナデはコートの裾を引き延ばして身を縮める。鈴原はポイントを交換して広い座席の中身を確認する。二億の札束。ずっと狙っていたアイテムを入手したはいいが、この状況で効果を発揮するとは思えない。
 エミリもすぐさま余った時計から武器に交換し、その中からスタンガンを鈴原に投げ渡した。
「お前、自分のポイントは?」
「ああ。あがったらポイントは使えなくなるみたいでさ。ホントよくできてるゲームだよね」
 エミリは侮蔑のこもった笑みを浮かべる。なるほど。指輪も服も、現金も武器も、あがってからは交換できない。ゲームの構造を考えるとポイントを貯めて様々なアイテムを入手してから交流するべきだが、そうすると関係構築は難しい。逆に先にペアになってしまうと、他の人間からの攻撃に対処する術がない。これでどうやって過去に生き残る方法があったのか、鈴原には甚だ疑問だった。


 銃声と怒号、悲鳴と懇願が車内に響く。
 痺れを切らしたエミリがナイフを鞘から抜き、そこにカナデがなにかを塗りたくった。
「それって毒? 200ページくらいにあった」
「……はい、そうです。全部は見られなかったんですけど。たぶん、もうここからは殺し合いになってしまうと思います……」
 焦っているのは鈴原も同じだった。かと言って、先にカップルになった人間を殺すという精神性にバス内が染まっているのは鈴原の予想よりも随分早かった。殺されるかもしれないという恐怖よりも、狡いという感情の方が人を殺す理由になるとは。

 グループの中に上下関係が出来てしまったことがその一因かもしれない。王子と女王が何も言わなくても、周りが二人より先にあがることを許さない。自分たちも我慢しているのだから、という感覚が拍車をかける。
「なあ、ここならバリケードも作れそうだけど。死んでる人も盾にできる」
「訂正。アンタ普通に最悪。わざわざカップルになった二人が殺されてるの、見たくないでしょ」
「高村さんはお前たちを奮起させるために死んだんじゃない」
「それは……そう、ですよね。そうですけど、さっき二人で決めたんです。もう、傍観しないって」
「かっこいいとこ見せないと、カナデに飽きられたくないし」
 エミリはコートを翻し、中心に駆けだしていく。カナデもそれに続いた。
 狭い車内では小回りが利く武器と身のこなしが勝利の鍵になる。バスに乗っているのは傭兵でも戦士でもない、ただの一般市民だ。毒は恐らくもっとも効果的だろう。
 ただ、エミリは背が高いものの細身で、カナデに至っては一発殴られたら死んでしまいそうなか弱さがある。鈴原はメイクを直してカツラを被ると、500ページの最後にあるアイテムとすべてのポイントを交換し、這いずりながら前へと向かった。

 

 

 突然のことだった。
「カナデ! エミリ! スザキ! ミヤノ! 王子、伏せろ!」
 鈴原の声に気づいたのは、呼ばれた五人が他の客よりもわずかに早かった。それを合図に車体は急カーブでドリフトし、派手に揺さぶられる。窓際に人間の塊が殺到する。いつの間にか全開になっていたバスの窓からは何人かの人間が振り落とされ、道路に転がる。しばらく猛スピードで走っていたバスは急ブレーキをかけ、バスガイドが転倒すると同時に完全停車した。
「んもう! スーツがくしゃくしゃ!」
 ガイドが起き上がり地団駄を踏んでいる横から顔を出し、鈴原は背後を覗き見る。同じように起き上がったカナデとエミリ、スザキとミヤノの姿を発見できた。王子は相変わらず女王を守っていて、そろそろハートマークが出てもいいんじゃないかと鈴原には思えた。
「運転手さん、ありがとうございました」
「いえ、仕事ですから仕方ありません。免許を持っていないと聞いた時は肝が冷えましたが」
 鈴原が交換したアイテムは「バスの運転権利チケット」だった。ゲームの範疇のことだ。当然バスガイドはこれを渋々了承した。
「運転下手すぎですう!」
 頭を打ったのかバスガイドは呻いている。ちょっとした仕返しも成功したようだ。運転手に席を明け渡すと、停車したままでいるよう指示し、鈴原は無事な人間の確認に戻った。後ろ手にはスタンガンも持って、いつでも制圧できるように。


 結果的に言えばそれは杞憂だった。鈴原が認識している存在以外の車内の人間からは戦意が喪失していた。あるものは気絶し、あるものは事切れ、あるものは茫然としている。王子と女王にはめでたくハートマークが表示され、生き残った取り巻きたちも互いの無事を確認しあっている。

 もしも敵対行動に出るなら、鈴原はその取り巻きたちも死んでしまっても構わないと思っていた。わざわざ自分に手を差し伸べてきた人間たち以外に情をかけても、危険を増やすだけだ。
「悪い、乱暴なことした」
 どちらがスザキかミヤノかはわからないが、二人は鈴原の言葉を否定するように首を振った。頭を下げられたが、喜ぶ間もなく鈴原は周囲の人間の時計を確認するため目線を動かそうとした。
 と、励まし合っていた生き残りの八人の人間たちから歓声があがる。それぞれ腕を掲げて、泣き笑いのような表情で見せあっている。
 鈴原は背筋が冷えるのを感じた。この勇気ある行動によって、誰かに好きになってもらえる可能性もあると考えていた。なにせ起死回生の一手だった。それが、八人の取り巻き、戦闘コンビ、王子と王女、カナデとエミリの全員にハートマークが表示されているのだ。慌てて自分の腕を確認するも、なんの表示もない。
「せっかく頑張ったのに、残念でしたねえ?」
 バスガイドは、先ほどまで破れたストッキングに不機嫌そうな顔をしていたくせに、打って変わってくすくすと上機嫌に笑っている。
「なにやってんだよアンタ!」
「わかってるよ!」
 ひきつった顔で咎めるエミリに舌打ちで返した鈴原は、一番後ろの座席に駆けていくと、一億の入ったトランクをひきずってまた戻ってきた。まだだ。まだ、可能性はゼロではない。ハートマークがついていない人間は、いる。
「あらまあ、一億円。交換していたんですねえ。それで? 私を口説いてみますう?」
「今から俺がいかにいい物件かプレゼンする」
 バスガイドがにたついているのを尻目に、鈴原は運転権利チケットを掲げた。
「これが俺のところにあるということは、このバスが動くかどうかは俺次第ってことになる。運転する権利は、この運転手さんにはないんだ。俺が指示するか、俺が運転しない限りバスは動かない」
「それでえ? 恋が芽生えるまでここで暮らします?」
「それもありだ。つまり、運転手がこのバスを運転しないという選択を、俺は取らせることができる。もしも運転手さんがバスを降りたければ……辞めたければ。ここで、帰ることができます。バスの運転権利がないから」
「は、はあ? それになんの意味があるんです? というかバスの運転権利と解雇は別じゃないですかあ?」
「そんなの書いてないし、期限も書いてない。契約書ってのはちゃんと作成しないとな。だから、このバスはもう俺のものだよ」
「で。まあ、そうだとしても。それで私があなたに靡く要素がありませんけどお?」
 鈴原はバスガイドを押しのけると、トランクを運転席に向けて開いた。


「一億あるんですけど、こんな仕事やめて俺と暮らしてくれませんか?」
「…………は」
「いや、ほんとは二億あるんですけど。一億は高村さんの家族とかに渡した方がいいかもしれないし、なので、俺は一億なんですけど」
「……はあ」
 運転手はぽかんと口を開ける。眼鏡の奥の瞳が意味を掴めていないように、動かないでいる。それをいいことに鈴原は畳みかけた。自分でも何を言っているのか鈴原にはわからなかった。自分の父親くらいの年齢の男性に、求婚を迫っている。
「どう考えても、ここで俺にした方がいいです。この後温泉にも行けるし、うまい飯が食えるし、一億あるし、こんな仕事辞められるし、温泉行けるし! あと、俺の女装、結構かわいくないですか?」
 必死だった。彼しかいなかった。あんな女はゴメンだった。それ以上に、この運転手がゲームに乗り気でないことを知っていた。バスに乗る時、最初に鈴原の身の安全に気を配ってくれたのはこの男だった。
 ならば、どうしても選ばれたかった。仕方なくこのままこんなことを続けるよりも、一緒にゲームをおりて欲しかった。しかし、この男を好きかと言われると難しい。ならば他の客には悪いが、鈴原は恋が生まれるまで本当にバスを停めておくくらいは覚悟していた。
「━━は、はは。あなた、馬鹿ですね」
 運転手が笑う。その手首の時計にはハートマークが表示されていた。自分の腕時計にも、同じマークがある。
「……いやはや、ほっとしました。ようやくバスをおりられる」
「お、おれ……のほうが、ほっとしまし、た……」
 緊張の糸が切れて、鈴原はその場にへたりこむ。

 これが恋だろうか? こんなものが恋だろうか。激情も感動もない、燃えるような熱もない。

 これが恋だというなら、最新の技術というのも大概馬鹿だ。
「はあ? 最悪です。超最悪です。もう絶対私、部署移してもらいますう!」
「すみません。温泉、行ってもらっていいですか? お土産、高村さんの会社に買わないと……」
「……わかりました。ご着席ください。発車します」
 エミリとカナデが鈴原を席に誘う。バスは温泉に向かって山道を進んでいく。生き残ったカップルたちを連れて。恋とはこんなものだろうか。このカップルたちが、本当に恋をしたのだろうか。なにをもってそこにある感情が恋だと時計は判断したのだろうか。

 バスは走る。山道を走る。

 和やかな雰囲気の中、何人かの死体を乗せて━━。

 

 

 

 

/恋とはどんなものかしら

 

 

パンスペルミアのペンギンが見えるか

 

 


 ━━る、か。

 ━━み、え━━る、か。

 ━━あの真昼の星、一等輝く空の光が見えるかい。君を探す一番星。一人は怖いと泣いている。君たちの出会いを祝福したい。

 どうか受け取ってほしい、新しい人。新しい命。どうか、きっと気に入ってほしい。人よ、言の葉を見るがいい。流転の間を見るがいい。未知のアルファとなりて、始祖アダムとなりて、星を導け。

 私は枢要。基本骨子と開閉を司るもの。人よ、美しく穢れたものよ。応答せよ━━。

 

 

 
 ある日、目玉が落っこちた。
 通勤中の、もうあと少しで会社にたどり着くというところだった。公園の横を通りがかって、コンパクトを開いて化粧をチェックした。マスカラがくずれているのを直して、頬にできた黒い筋の上から乱暴にファンデを叩いた。
 ──行きたくないな。ほら、ちいさな子供が幼稚園に行きたくないと泣いていて、お父さんが抱っこをしてあやしている。私も会社に行きたくない。子供はぜんぜん泣き止まない。つられて私も、もう一度泣いてしまいそう。
 そんな時だった。
 唐突に真っ暗になった左側の視界と、軽い音を立てて地面をバウンドする私の目玉。鏡に映る私の左目があった場所は、ぽっかりと開いたピンク色の穴を映すだけだ。混乱よりも先に思い出したのは、映画だか本だかで見た知識だった。
 
 すっぱり切れた指は、冷やしておけば後でくっつけてもらえることもあるらしい。
 
 私はまず道ゆく人がびっくりしないように前髪をおろして顔の左側を隠した。それから地面に転がった少し冷たい目玉を水道でよく洗い、コンビニで氷を買った。お金を払ってレジ袋をもらい、そこに氷と目玉を入れてさらに冷やした。黒目のところに豚の尻尾みたいな形の変な切れ目が入っている。落ちた時に傷ついたのかもしれない。こんな状態だと難しいかな。でも、もしかしたら眼科か外科に名医がいるかもしれない。神経を繋いでもらえるかもしれない。
 人生最大級の驚きに襲われると、人はかえって冷静になろうと、そしてラクテン的でいようとするらしかった。なぜ、どうして、とは不思議と思わなかった。どこにどんな菌がひっついたら風邪をひくのかも知らない私だから、考えなかったのだ。
 目の前に見えるビルに電話で欠勤を出してこっぴどく叱られた私は、自棄になってのんびり歩いて眼科に向かった。

 

 

 

 ──水晶落下症。
 お医者さんが言うにはとても珍しい病気らしい。まず水晶体がかちこちに固まって内側から膨らむ。そうすると目玉自体がどんどん硬くなる。膨らんだ水晶体が球体になると、圧迫された神経を麻痺させ、そして最後には焼き切れて落ちる、だとか。
 大昔から患者さんが存在した記録はあるらしく、見せてもらった古いぼろぼろの紙には「貞観三年」と記されている。これが一番古いみたいだ。
 それからは「寛永九年」「元禄十七年」「寛保元年」。「文化十四年」──これなんか、江戸のところにマークがある。地図で見ると、だいたい八王子辺りの患者さんだ。親近感がある。こう見ると過去の症例はかなりの数があるみたい。うねうねした文字から指を滑らせて文字を追っていく。
 「令和二年」、千葉。今年の七月にだって患者さんはいたようなのに、その奇病はいまだに解明されていないと、お医者さんは申し訳なさそうに言った。治し方がわからない。それはつまり、今のところ治らないということだ。
「あまたのすひせうらつかのやまひとつたはる」ってあるから、きっとこれから何回も私の目玉は落ちるのだろう。
 ただ、落ちた片目は石のように硬くなり、また、一日程度で生え変わるらしい。両目を無くすことは過去の記述に一切なく、眼球が取れることに痛みもないそうだ。(確かに、さっき落ちた時はまったくの無痛だった)
 それに、落下の頻度はある程度変えられるらしく、下を向いていると眼球が落ちる回数が少ない、だなんて迷信みたいな治療法も教えてもらえた。普通なら下を向いている方が落ちやすそうなものだけど。 
 明日には目玉が生えてくると聞くと、途端に安心半分、落胆半分だった。片目でも仕事は出来るし、うまく隠して生きていくのもそんなに難しくない。つまり私は質問攻めにあったりしながら、明日からも仕事に行くのだ。身内と会社には診断書を見せることになる。あーあ、こんな状態でも私の人生は案外大丈夫だ。まったく困った。困ったけど、これからも生きて行かなくちゃいけない。それに比べれば、目玉が落ちるくらいは大した困難じゃない。
 だから、しばらく見られなくなる空を見上げた。今なら、どうせ目玉も落ちてしまっているから。

 そこはからりと晴れた空だった。午前中の冷たい風が吹く。冬の空は空気が山頂みたいにみずみずしくて新鮮だ。頭上にはいくつもの星が瞬いていた。白く、遠く、黄色く、暗い、昼の星空だ。昼間にこんなにも綺麗に星が見えることもあるのかと、私はしばらく見つめている。

 すると、誰かと目が合った。
 空を見上げていたはずの私は、いつのまにかどこかの街並みを見下ろしている。ビル、信号、横断歩道。視界がスライドショーのように切り替わる。そして交差点を渡る男の子がふと天を仰いだ時。
 そんな彼と「目が合った」のだ。

 彼はフードを深く被っていた。そしてさらに前髪で片目を隠していた。右側の髪が垂れて、左側は耳にかけている。風が吹くと右の前髪が揺れて、くりぬかれたピンク色が見える。彼も同じ病を患っているのかもしれない。
 しばらく彼と見つめ合っていた私は、ふと空が曇りだしていることに気づいた。ちらちらと雪が舞っている。残念だ。あと十日くらい遅くに降ってくれたらホワイトクリスマスだったのに。まあ、クリスマスも仕事だけどさ。
 彼の目を見つめていたら、だんだんと眩暈がしてくるのを感じた。昔から首猫背っていうのか、ずっと上を向いていると気持ち悪くなってしまうところがあった。もう少しこの不思議な空と男の子を眺めていたかったけれど、仕方なくやめることにした。この後のことを考えると少しだけ憂鬱で、そのままゆっくりと視線を下げていく。。
 帰り道には会社のビルがあった。ズル休みをしているわけではないけれど、誰かに会えば少しきまずい。かと言って遠回りもしたくなくて、溜息を吐きながら歩きだした。しばらくそうして歩いていると、やがて、前方に人だかりが見え始める。会社のすぐ近くだった。まさかとは思ったけれど、先輩がやじうまに立っていた。
「ああ落合さん。元気そうじゃない。大丈夫だったの?」
「元気なんですけど、難しい病気みたいで。でも、大丈夫です」
「難しい病気って? 寝坊病とか?」
 私はむっとして先輩を見た。この人はいつもこうやって嫌味を言ってくる。けれど今はこの人だかりが気になって、言い返さなかった。
「テレビの撮影かなにかですか?」
「あなたって本当にラクテン的なんだから」
 ラクテンというのは私のあだ名だ。落合天子でラクテン。タンラク的なあだ名だ。あまり好きじゃないけれど、馬鹿に見えることはある程度のことを諦めてもらえて楽な面もある。例えば本当に遅刻した時なんかは使えるあだ名だと思う。
「事故ですって。誰も見てなかったんだけど、トラックかなにかが突っ込んだみたいよ。もう片付いちゃってるけど。ほら、あの地面が大きく凹んでいるところ。まだ血がべったり見えるでしょ」
 そんなことを嬉々として語る必要があるだろうか。けれど先輩が指さした場所には見覚えがある。朝、ぐずる子供をたしなめるお父さんがいた場所だ。なんだかそわそわしたような気持ちで、私も覗き込む。自分の白い息に邪魔されてよく見えないけれど、たしかに酷く地面がひび割れている。私のアパートの一部屋よりも大きな窪みがそこにある。そこにこびりついている黒っぽいのが本当に血だったら……まさか、あの親子じゃないよね? 
 見上げれば、ビルからは人が何人か窓から乗り出してスマホを構えている。あそこはうちの部署だ。本当に、どうしてみんなこうなんだろう。嫌になる。

 

 ふと視線を感じた。左目があった場所が熱い。ちりちりと、深爪したみたいな小さな痛みが走る。お医者さんの嘘つき、痛くないって言ったのに。視線は空から降ってくる。あの男の子に違いない、と私は見上げた。
 彼と目が合う。彼はなにも喋らない。ただ、なにかが燃えているような眩しい光が見える。強く青い光が見える。
 彼が見える。彼の後ろにも、地面が凹んだ道路が見える。揺らぐ空間が見える。彼の遥か後ろに駅が見える。何駅だろう、彼も同じ病気なのだろうか。それなら、会って話せばなにかわかるだろうか。そう思って見つめたそれが、唐突に凹む。質量をそのままぶつけたみたいに、駅の屋根が陥没して、電車がひしゃげる。何もぶつかってないはずなのに、真上からなんらかの攻撃を受けたみたいに。
「ばか、じっと見るな。もう一発落ちるぞ」
 どこからか声がする。空からするみたいで、真横からするみたいで、頭の中からするみたいだった。先輩が話しかけていたみたいだけれど、私はその声を聴き洩らしたくなくて、人気のない方へふらふらと進んでいく。
「聞こえてるのか?」
 男の子の声だ。空を見れば、彼と目が合う。口元が動いている。なら、この声はきっと彼だ。声変わりしたばかりみたいな、ざらついた、けれど少し高い声。言葉を放り投げるように話すのに、声がとても柔らかい。
「聞こえてるよ。私は落合天子、あだ名はラクテン」
「悠長に自己紹介か。アンタ、どうして自分の目が落ちたかとか、何が起きてるとか、気にならないのか?」
「やっぱりあなたも同じ病気なんだ。うーん、気にはなるけど……明日も仕事に行かなきゃいけないし」
 男の子はふん、と鼻を鳴らした。
「じゃあ俺と無駄話をする気にしてやる。安心しろ、アンタはもう仕事に行く必要はない」
 なんだか怪しげな宗教に勧誘されているような気分になって私は押し黙る。フードと長い髪で気づかなかったけど、よくよく見るとかっこいい男の子だ。十個くらいは年下かな。
「質問はいらない。どうせ世界はアミノ酸のスープで埋め尽くされる。俺とアンタ以外は。追放されないアダムとイブってわけだが、俺のせいでもあるし、これからは永久に一緒なんだ。自己紹介はしておく。俺はカサイ」
「……ええと、カサイくん。言ってる意味がわからないんだけど。不思議なことが起きてて、それは私やあなたのせいってこと?」
「違う。単に人間ってのは賞味期限切れなんだ。世界中の人間が、毎日一日でも多く生きられますようにと願っているなら……悪いことをしたけど」
「私たちが永久って?」
「死なないってこと。まあ、なんだっていいだろ。葛西臨海公園わかるか? 詳しい話はそこで」
 男の子はそれだけ言うと、一度だけひしゃげた駅を見て、肩を竦めると別の方に向かって歩きだした。不思議と嘘を吐いていないような気がするし、この病気のことも私よりたくさん知ってるみたいだ。
 彼は地面を見つめて、もう私なんてどうでもよさそうに去って行ってしまった。千葉ってどうやって行けばいいんだっけな、と眺めていたら大塚駅が崩れ落ちてしまった。さあ私の方も大変だ。京葉線まで止まってしまわない内に、急いで東京駅へ向かわなければ。

 

 

 

 カサイくんは背中を丸めてベンチに座っていた。コートのポケットに両手をつっこんで、前後にゆらゆらと揺れている。息が白い。空は灰色だ。
 若い子と会うのにこんな着古しのダッフルコートだったら怒られるだろうか。駅のコンビニで買ったミルクティーを二つ持って隣に座る。なんとなく、彼は余計な挨拶を嫌がる子な気がした。
 色々なところで「事故」が起きているけれど、観覧車はゆっくりと回っている。潮風は強く冷たい。どうしてこんなに寒いところで、二人してのん気に座っているんだろう。
「子供って思ってミルクティーにしたんだろ。俺、コーヒー派だから」
「あ……ごめんね。勝手に買っちゃって」
「別にいいよ。次からはそうして。覚えててくれたらそれでいい」
 言いながらカサイくんはミルクティーに口をつけて顔をしかめた。どうやら甘いものは苦手みたいだ。
「アンタと二人で生きていくしかないんだ。つまらないことで癇癪を起して、印象を悪くしたくはないからな」
「えっと……カサイくん。水晶落下症のこと、ずいぶん詳しいみたいだよね。私は……あの。お医者さんは、あんまりカサイくんが言うようなこと言ってなかったから……」
「俺が信用できない?」
 どんぐり眼というのはこういう目をいうんだろうか。てっきり機嫌を悪くすると思っていた彼はしかし、きょとんと眼を丸くしている。少しだけ反抗期のような素っ気ない雰囲気がある子だけど、多分、彼は彼なりに私に歩み寄ろうとしてくれている。
 灰色と青の中間みたいな虹彩がとても印象的だ。近くで見るとまつ毛が長くて多くて、とてもきれいな顔をしていた。十代か二十代か判りにくい造りをしている。
 私は答えあぐねた。信用できないって言葉は乱暴だ。あなたのことは信用できないなんて言われたら、私ならそれなりにショックだ。でも、いきなり色々なことがあって、現状を飲み込めてないのも事実だった。どういう風に言えば彼を怒らせないで済むだろうか?
「そういうつもり……じゃないんだけど」
「なに、はっきり言いなよ。そうやっていつも人の顔色うかがってるわけ? 初めて会った年下のガキにまで気使ってさ」
 彼の声色には馬鹿にするような抑揚はなかった。顔だって笑ってるわけじゃない。どちらかというと呆れてるみたいだった。このうだつのあがらなさにずっと苦しめられてきた。そんな私のどこがラクテン的なのだろう。
「あ……うん、ごめんね」
「違う違う。別に怒ってないし責めてるわけでもない。アンタってどうしてそうなんだ? もしかして、俺のこういう言い方が良くないのか……」
 カサイくんは考え込むような仕草をして、それからすぐに悪戯を思いついたみたいに笑う。表情がころころ変わる子だ。目は口ほどにものを言うなんて言うけど、言葉はきついのに瞳が優しいから、きっといい子なんだろうと思う。
「傷つけられたってアンタが思うなら……次からは機嫌が悪くなったとそう言えばいい。アンタと仲が悪くなること、俺は困るから」
「なにそれ?」
「俺の説明書。病気だのなんだのよりも、大事なことだろ」
 そうなんだろうか。目玉が落っこちることより、世界が終わっちゃうことより、彼と仲良くなることが大事なことなんだろうか。彼にとってはそうなのだとしたら、私はどうやって応えるといいのだろうか。真摯な態度に対してどの返事が正しいか考えることは、もしかすると間違っているのかもしれない。
「何か言いたいこと見つかった?」
「うーん。カサイくん言ったでしょ。子供じゃないって、年下のガキって……それってどう接したらいい?」
「はあ? それかよ。うん、まあいいよ。そうだな、やっぱりガキ扱いはしないでほしい。でも、アンタにもしも弟や可愛がってる後輩がいて……寂しいっていうならそうしても構わない」
 いっそあなたの方が寂しいんじゃないかという顔で笑うので、私は思わず手を握る。永久に生きるって言ったくせに、死んじゃってるみたいにひやりとした手だ。
「……なんだ。ほんとに弟、いるの?」
「いないよ。カサイ君の手を握ってあげたいなって思ったの」
「ふーん? じゃあ、握ってれば」
 カサイくんは私に手を握られたまま顔をそっぽに向けた。海を見ながら、ぽつりと話し始める。しずかな声だった。
「……最初に俺の目玉が落ちたのは今年の7月2日だった。そりゃ、パニックだったよ。何が起きたのかわからなかった。医者にも行ったけど要領を得なくてさ。俺は知りえる限りの情報媒体を使ってこのことを調べてたんだ。そして、落ちた目玉を並べていたら、文字みたいな傷があることに気づいた」
 言われて、私は今日落ちたばかりの目玉をポケットから取り出す。確かに何か刻まれている。よく見ると、アルファベットに見えなくもない。Mかな?
「持ってきてるのか。なら話は早いな。そう、俺も最初はMだった。それは全部で五つなんだ。MONEO──助言や警告って意味らしい。何個落ちてもその繰り返しだよ。それに気づいた時、突然空から声が降ってきた」
「空から? さっき、カサイくんが話しかけてくれたみたいに?」
「そうだ。かなり流暢な日本語だったよ。あんなに明瞭な幻聴があったら、たまらないってくらいにね。そいつが言うには……どうやら地球の人類を保護したいらしい。貞観三年……いや、もしかするともっと前から了承してくれる人類を求めてメッセージを送っていた──隕石を落として。それもさ、どうやら日本の隕石にだけ仕込んだらしい。七月二日、記憶にないか? 習志野隕石、それが俺とそいつを結んだんだって」
 ニュースで見た気がする。多分、同僚とかも話していたかもしれない。普段から気にしている事柄じゃないから定かじゃないけど。
「地球は、定期的に丸洗いしないといけないらしい。菌も微生物も草も魚も人間も、とにかく今は生き物が多すぎる。はるか昔恐竜の数を調整したのと同じように、また一回ある程度減らすか、分厚い氷の下で眠らすんだそうだ」
「どうしてカサイくんなの?」
「気づいたから、らしい。試行錯誤を繰り返して何度も隕石を落としてチューナーにした。瞳から体に信号を流したけど、情報量が多くて目玉がもたない。今度はその落ちた目玉にメッセージを刻んだ。けれど、向こうだって俺たちの文明にあったメッセージを送ることに難儀したんだな。俺がそれに気づいたから、俺をやりとりする相手に選んだ。所かまわず話しかけてくるから、傍から見たら俺は独り言のうるさい男だ。親に閉鎖病棟にぶちこまれそうになったよ。まったく、こんな世界すでに終わってるじゃないかって文句のひとつも言いたくなる」
 彼は溜息をついて、視線を私に戻す。
「親……そうだ。お父さんやお母さんも生き残れるの?」
「いや? やりとりって言っても一方的だ。横スクで有名なゲーム会社とその社員だけは助けてくれって頼んだけど、理解できないみたいだった。腹減ってるのかな、くらいのテンションでさっきの駅みたいに、実家にアミノ爆弾を投下されたよ。向こうからすればカブトムシの籠にゼリーを置いてるような気分だろうな」
 アミノ爆弾、と彼が呼ぶのはさっき私の目の前で落ちたやつのことだろうか。あの透明な隕石。もしかしたら、幸せな親子を公園で潰し殺したかもしれない、それのこと。彼のご家族を消し飛ばしてしまったかもしれない隕石、爆弾……たしかに。すごい質量にぶつかられてひしゃげた駅舎を思い出す。
「どうして」
「先に謝るよ。アンタが生き残ることになったのは俺のせいだ。声の主が一つだけ俺の言ってることを理解したせいだ。俺が、こう言った──それじゃあ俺はこのさき一人きりで地球で生きていくのかと」
 申し訳なさそうな、懇願するような目で彼は私を見た。大人ぶった口調とはうらはらに、迷子みたいな顔をしていた。風で前髪がさらさら揺れる。あるべき目玉がなくなった空洞が、寂しそうに乾いていた。
「地球の救世主とやらは、人間となにもかも分かり合えないくせに、寂しいってことだけは知っていた。そうして俺の機嫌を取るみたいにアンタを選んだ。現状に嫌気がさしているアンタならきっと同じく寂しいのだろうと思ったんだろう。案外、そいつも一人で寂しがっているのかもしれない。そして、同じ喪失体験をしていることが隙間を埋め合えるってことだと思ってる。アンタも同じ病気にして──つまり自分の言葉が届くようにしてさ。その内アンタもあいつの声が聞こえるんじゃないか。勝手だよな」
 頭の中をぐるぐると言葉が回る。つまり。地球は近いうちに終わってしまう。私とカサイくん以外は死んだり、冬眠してしまう。それはすごく悲しいことだ。仲の良い友達と時々するランチも、お菓子をくれる近所のおばさんも、ちょっと素敵だなって思ってた取引先の営業さんも、みんな全部なくなっちゃうんだ。
 ああ、でも、どっちにしろ。最近誰ともまともに会話していなかったんだ、なんてことも、同時に気づいた。仕事ばかりしてたなあ、なんて。一方的に言葉をぶつけられることは多々あった。でも、こんな風にお話をするのは久しぶりな気がした。
 多分、これからものすごく残酷なことが起きる。それがわかってて、私やカサイくんには止められない。少しだけ思ってしまった。もう、仕事に行かなくてもいいのかあ。
 でも困ったな。死ねないなんてとても困った。これから色んなものがなくなっていくのに、死ねないのに。どうやって暇つぶしをすればいいんだろう?
「あまたのすひせひらつかのやまひ。気づいていたやつも過去にいたはずなんだ。それでも、さすがに滅亡したなんて文献はないし、下手したら久々の地球丸洗いなのかもな」
「すいしょうらっかじゃないの?」
「ああ、医者が言ってたやつ? 知らないよ。神様だか宇宙人だかだって、誤字をするんだろ。あ、今の内にしたいことがあるなら付き合うけど」
「えー。どうしよう。もうずっと有休も使ってないし、何して遊ぶとか思いつかないな」
 カサイくんは唸る。どうしようもないようなものを見るような、かわいそうな目で私を見た。彼の方はゲーム会社を残したい、なんて縋れたのに。私はというと、もうなにも救えないと聞かされて、そうなのかと呑み込めてしまったから。
 そうだ。いいことを思いついた。きっと、今の私はさっきの彼のような、悪戯をする子供の顔になっているんだろう。
「ねえ今、機嫌が悪くなったよ」
「はあ? なに、どうして」
「可哀相な大人だなって顔したから」
「謝罪するからそんなことで怒るなよ」
「嘘。ただの冗談。でも、災難だったよね。カサイくんだって相手くらい選ばせてもらえれば良かったのに」
「別に? 俺はアンタのこと嫌いじゃない。そのくだらない嘘をつくとこだって、黙ってるより全然いいよ。将来的に嫌いになって喧嘩したって、北半球と南半球に分かれて五十年くらい別居したって、どうせ俺がアンタに謝罪しに行くことになるさ。お願いします、もう一度一緒に暮らしてもらえませんか? 花の冠だって作りますって」
 カサイくんは手のひらを握り返してきた。温かかった。まだ、世界中にたくさん人が生きているのに、この掌しか温もりのあるものはないような気がした。
「ふふ。五十年も一人だったら何しようかな」
「前向きに検討するなよ。ああそうだ、ペンギンすき?」
 妙に舌ったらずに、甘えるような声で彼は言う。年上の女の人の機嫌を取ることに慣れてるのかな。ちょっと意地悪をしたくなる。
「ペンギン? うーん、あえて好きでも嫌いでもないけど」
「そっかあ……ほら、アンタが寂しいならさ。氷の下でみんな眠ってるなら、その上で生活するのもいいかなって」
「それでペンギン? 南極ってこと?」
「誰もいなくなるんだし、元々どこの国のでもないし。勝手に住んでもいいだろ」
「じゃあ……そうだなあ。私もカサイくんの機嫌とっていい?」
「いいけど? 何してくれんの」
「別になんでもいいよ。こう見えて貯金だけはあるんだ」
「なんでもいいとか、簡単に言わない方がいい。そういう浅はかさがアンタを生きにくくしてきたんだ」
「大人っぽいこと言うんだね」
「……じゃあ言わない」
 そっぽを向くカサイくんが海をじっと眺めていると、見えない隕石がどぼんと落ちる。ほら、ここに栄養の塊をおいたよ、食べる? と空の使者が言っているみたいに。波が弾ける音に、鳥たちが飛び去る。
「ごめんね。子供っぽいとか大人っぽいとか気にしないで。カサイくんがしたいこと、しようね?」
「……観覧車」
 ゆったり回るそれを見上げて、彼はぎりぎり聞き取れる声量でそう言った。
「乗ろうか。壊れちゃう前に」
「……うん」
「ペンギンも見に行こうよ。南極はおいおいにして。ほら、ここって水族館もあるみたいだよ」
「……うん。知ってる。地元だから。天子はなにかしたいことないのか」
 空を見上げて考える。そう言われると特になにもしたいことはなかった。ただ、やけに素直に頷くカサイくんはとてもかわいくて、これはなかなかいい気分だと思う。じっくりと人と話すことって、こんなに面白いことだったっけ?
「じゃあカサイくんがしたいことをして、楽しそうにしてるのが見たいなあ」
「俺のことばっかり」
「それはカサイくんがいい子……いい男だからだよ」
「なに、無理に言い直さなくていいけど……だいたい、それで俺がヘンなこと言ったらどうするつもり?」
 カサイくんは不敵に笑った。かわいい子。
「変って? 一緒に死のうとか?」
「……ああ、うん、まあ。なんでもいいけど。そういう、受け入れがたいこと」
「んー、いいよ。神様がいいって言うならね。でも、どうせだからもう少しだけ遊んでからにしよう。おやすみはいっぱいあるんだし」
「……わかった」

 

 上空百十七メートルから見る町はジオラマみたいで。なるほど人はみんな虫みたいに見える。遠くの大きなビルがどんどん潰れていくのが見える。あのどれかの建物には、きっと私の知ってる人がいたけど、それはもうどうしようもないことらしい。
 私のことを大事にしてくれた人もそうでもない人もみんなすぐにいなくなって、やがて一つのおいしいスープになる。栄養たっぷりで、どこからどこまでが誰なのか、見分けのつかない海になる。
 いつまで経っても飲みきれないスープを分け合いながら、私たちは次に命が生まれるまで、もしくは目覚めるまでを二人で生きていくらしい。
 そんなこと、一体誰が信じるのだろう。私たち、互いの口元に大きなスプーンを運んで、飲ませ合ったりしながら仲良く、時々喧嘩して生きていけるかな。寂しがり屋なくせに二人きりしか残さない、神様の目の下で。
 スープばかりじゃ飽きてしまうから、野菜の種を撒くこと、神様は許してくれるだろうか。究極のスローライフをカサイくんと二人で。毎年好きな花を順番に植えっこしていくくらいなら、罰は当たらないと信じたいけど。
「野菜とか植えても平気かな」
「やるだけやってみたら? もしかしたら大根はダメだけどキュウリはいいとかあるかもしれないだろ。あ、でもトマトはやだ。これは絶対。大根もなくてもいいし」
 はい、と私は素直に返事をする。これはいいよ、これは嫌だよ、なんていちいち確認しあって、そういうことを今までしてきたことはあっただろうか。
「あ、俺そろそろ目生えそう」
「そういうのってわかるんだ」
「アンタもその内慣れるよ。色々教えてやる……あーあペンギンだけ生き残れないかな」
「お願いするだけしてみようか?」
 神様、どうかキュウリとペンギンだけは生き残らせてくださいなんてお祈りする人類は、きっと私たちが初めてだと思う。だから珍しく思って、どうか聞き入れてください。
「どうして生き残らせるのが日本人だったんだろうね」
「ああ、言ってたよ。そいつの名前、カナメっていうんだって。だからじゃないか?」
「へえ、神様ってエコヒイキもするんだね」
 そりゃそうさ、と空から声がした。

 

 警報が鳴っている。蜘蛛の子を散らすみたいに、観覧車から慌てて人が逃げていく。
 空の雪をかき分けて、大きな波が立つ。アミノ酸なんていらないから、カサイくんのためにペンギンを残してください。そしてあなたも寂しいなら、ペンギンでも飼ってみるといい。
「天子! 見ろよ! なんだろうあれ、新種かな?」
 はしゃいだカサイくんが海を指さした。見たこともない真っ白なペンギンたちが、十、百、たくさん。地上の混乱をよそに、すいすいと泳いでいた。

 

/パンスペルミアのペンギンが見えるか

 

シュレディンガーの斎藤くん

「紫陽花って好き」
 嘘にもならない嘘を吐いた。もう、十年以上前になる。中学時代の写生だったか地域のレポートだったか、校外学習で近所のお寺に訪れた時のことだ。
 班長の斉藤くんがじっと紫陽花を見つめていたものだから、話すきっかけ程度に口にしたものだ。クラスに友達がいないわけでも、斉藤くんが好きなわけでもなかった。ただ、私は絵を描くのも、お寺のお坊さんのお話をメモするのも面白みを感じなかったのだ。このままふっといなくなって、カラオケにでも行って、みんなで割り勘してプリクラを撮ったりしていたかった。

 斉藤くんは眼鏡をきらりと光らせてこちらを見上げる。近くで見ると、黒髪は意外と癖毛で細くて、こんなにじめじめしているのに目元が涼しげだ。
「あづ」
 女友達しか呼ばないあだ名で急に呼ばれて、私は大きく息を吸い込んだ。ついでにスカートのプリーツを数えて、手を交差したりして「なあに」なんて甘えた声も勝手に出た。
「ああ、そうか。君も“あづ”だったね。梓。本宮梓だ」
 斉藤くんは照れ臭そうに笑う。女子と話すことに慣れていないような仕草に、自分がなんだかすごく魅力的な女の子になった気がして、少しいい気分になった。
「でも、本宮さんのことじゃなくて。紫陽花のこと」
 けれど私の魔法はあっという間に解けてしまって、すぐに普通の、ただの吹奏楽部の本宮梓に戻ってしまう。
「紫陽花という名前は、まず、音から生まれた」
 授業中に朗読をするような声で斉藤くんは語り始めた。教室で彼の言葉に真剣に耳を傾けたことなんてないのに、今はするりと耳の中に入ってくるのが不思議だ。音、というところで私の顔を見てにっこりと笑う。吹奏楽部だから、だろうか。
「紫陽花という名前は、あづさヰという言葉が変化したものなんだ。あづ、は小さいものが集まっている様子。さヰ、は藍色のこと」
 好きな花だといった手前、知らなかったことが恥ずかしく思えて、私はあいづちだけを打った。
「つまんなかったかな」
 斉藤くんは目の前の小花の塊を見ながらそう言って、水彩絵の具をパレットの上で混ぜた。お世辞にも上手とは言えないけれど、スケッチブックに描かれた鉛筆の線は何重にも描きなおした跡があって、なんというか愚直だった。消しゴムで消しても残っている鉛筆が通った道はでこぼこしていて、斉藤くんの筆圧が強いことを知ったのは、あの時だ。
「私のあづ、と斉藤くんのさい、だね」
「え?」
 斉藤くんの長い睫毛も、真っ赤な顔も、漫画みたいにぽとりと落とした筆も、なにもかもがとても愛おしかった。
 彼を好きになってしまいたかった。けれど、紫陽花が好きだなんて嘘を簡単に言えてしまう私は、斉藤くんには全然似合ってなくて、止めた方がいいんだろうなと思った。それに今、全然好きじゃないけど、彼氏もいるし。どうしてオーボエコントラバスの担当は部活代々付き合ってたなんて話になったのかも忘れたけど、変に嫌がり続けるのも空気が読めない感じがしたからそうなった。でも、カラオケで彼氏がAKBばかり歌って、からかわれる私の身にもなって欲しかった。
 むしむしとした風が吹いて、止まった時間が動くみたいに彼は筆を取り直して、頭を掻きながら俯いた。
「からかうなよ」
「確かに。私が名前の方のあづ、なんだから、斉藤くんもまこと、の方じゃないと変だね」
「それじゃ“吾妻コート”だよ」
「なにそれ?」
「コートだよ。和服のさ。女性用の」
「なんでも知ってるんだ」
「色々調べると面白いものだよ」
「斉藤くん、頭いいからなあ」
 話をせいいっぱい逸らして、私は紫陽花の細い枝に触れる。吹奏楽だって、本当はそんなに好きじゃない。わざわざ知りたいと思うほど好きなことなんてなにもない。しなくていいなら、デートの時に化粧だってしたくない。
「あーあ。私たち、もっと早く出会っていればよかったって思わない?」
「小学校から一緒なのに?」
「それは出会ってるって言わないよ。だってこんなにおしゃべりして面白いと思わなかったもん。もっと前にいっぱいしゃべっておけば、私図書委員にだってなってたかもだよ」
「思わなかったんだ」
「だって、頭良くてなに言ってるかわからないと思ってたもん」
「うーん。俺は本宮さんのこと、いつも元気で……おしゃれだなあって思ってたけど」
「おしゃれなんかしたくないんだよお。タイムトラベルで時間が巻き戻ればいいのに」
「戻らない。それに、本宮さんはなんでもまっすぐ言っちゃうし、ちょっと冷たい」
 私が、家で猫を撫でるように紫陽花を指でこすっているのを、斉藤くんはじっと見つめている。
 そっちの言い方の方がよっぽど、冷たいじゃない。
「なにそれ。もう、斉藤くんなんかしらな~い!」
 今、まっすぐ思うあなたへの想いを一生懸命押さえつけて言わないでいることも知らないで。丁度頃合いに感じて、私は怒った振りをしてその場を離れた。彼も引き止めなかったし、謝らなかったし、私は紫陽花なんか好きじゃないし、それからの日々は今までにすっかり戻ってしまったように何事もなく続いた。

 今の今まで思い出しもしなかった。仕事に行き詰って、彼氏と喧嘩別れして、神頼みに来たはずが……相変わらず私は馬鹿で、お寺に来てしまった。
 そうして、今も変わらず花を付ける紫陽花を見て、思えば初恋にも似た、あの十数分のむずがゆい時間に帰ったのだ。
 彼が今どうしているのかは知らない。同窓会に行けば会えるかもしれないけれど、もしも奥さんがいたり、子供ができていたりしたらちょっと悲しい。それでなくても、髪が茶髪になってたり、本を読んでなかったり、コンタクトレンズにしていたりするかもしれないから。
 あの日のまま、写真すら持っていないあの時の記憶の斉藤くんが、紫陽花の藍色の横の同じ色の学ラン姿の彼がいい。
 それを大事に大事に箱にしまって、中身のことは見ないでいるほうがいい。
「嘘、本宮? 本宮だよね?」
「斉藤くんは、本宮、なんて呼ばない」
「え、なんて呼んでたっけ」
「あづって呼んでた」
「嘘つくなよ」
 身長は少しだけ伸びたかな。黒髪は変わらないけど少し伸びてる。眼鏡は外しちゃったかあ。かくいう私の方は茶髪だし、ピアスは開いてるし、肩とか出ちゃってるけど。
「なんで同窓会、来なかったの? みんな会いたがってたよ」
「私、別に中学時代に思い入れとかないしなあ。親友って感じの子もいなかったし。あ、でも高校のには行ったよ」
「やっぱり本宮って、ちょっと冷たいよ」
「やっぱりタイムトラベルして、昔に戻って、すごく紫陽花に詳しくなって、あの日の斉藤くんを言い負かしたいな」
「なにそれ」
 笑った時に恥ずかしそうにするところは、昔のままだ。
「あ、でも。今から詳しくなれば? そうすればタイムトラベルなんていらないよ」
「待って、今調べるから」
 十年後の今には、文明の利器がある。いや、十年前にもあったっけ? スマホ
 鏡みたいに同じようにスマホを取り出した斉藤くんに付きつけるように、私は検索ページを見せた。
「紫陽花の花言葉は、辛抱強い愛情、だって」
「え?」
 取り落しそうになったスマホを漫画みたいに手で何度も弾いてなんとかキャッチした斉藤くんは、真っ赤な顔でじっと私を見た。今度は俯かなくて、私の方がなんだか照れそうだった。
「本気にするよ」
 怒ったような顔の彼が差し出したスマホには、チャットの招待画面が映し出されている。
 ああ、なんてことはない。意外と、箱は開けてみるものなんだ。

 

満月紀行

 空はもうもうとした煙のような雲に覆われ、湿気を帯びた風はもうすぐ雨が降りそうだと予告する。濃紺に灰を垂らした空には、脅かされない絶対さを伴って丸い月が大仰に座り込んでいた。
 この地域、コート一枚では随分冷える。もし俺が風邪など引いてかえれば職場は大爆笑だろう。俺の昔話ギャグで笑ったことなど無い癖に。

「今夜は満月か」
「そのようだね」

 独り言に返事をしたのは、ヘンリーバッヂ社のH-EKE0222型生活補助デバイスだ。
 Hは会社名、最初のEは電子思考回路を搭載していること、Kの部分は所有者が稼働停止を命じることが可能なキラストロ制御の搭載を表している。キラストロが入ってない電子思考回路なんて危なっかしくて使えないが、昔は当然なかったわけで。ちなみにEは出荷地域名で、数字は型番だ。
 俺は「彼」に親しみを込めて「ヘケ」と呼んでいる。どうしてそんな名前なのかというと、大昔のフィルムでねずみの鳴き声がそうだったからだ。まあ、他人から見るとヘケはねずみの形には見えないらしいので、俺の絵画の授業の点数なんて知れたものだった。

「また思考が過去に跳躍しているようだけど」
「俺の脳波をスキャンするのはやめろって言ってるだろ」

 ヘケはキュルルと音を鳴らして首を回転させる。人にすれば肩を竦める動作がそれに当たるが、どうにも不気味な彼の癖だ。俺の胸元についたM・Hの個体認証バッヂに頭突きをかまして、彼は黄色いレーザーを発射する瞳をこちらに向けた。

「それで、逃亡患者はこの先にいるのか」
「訂正するけど、さっきはスキャンしていないよ。君の行動は単純だから過去に学習したことを繋ぎ合わせれば簡単に推測できる」
「この先にいるのか!」
「会話を遮るのは良い行動とは言えないな。そして答えはイエス

 ヘケは尻尾を七色に光らせてみせた。俺は彼の長い耳をつついて、背の高い家屋がひしめき合う街の地図を空中に表示させる。
 患者とは得てして医者のいうことを聞かないものだが、ものわかりのよさそうなあの老人がまさか処方の日に来院しないとは思いもしなかった。
病院にかかる人間は━━人間に限らないが━━カルテ代わりに認証チップを埋め込む決まりがある。国の基準にここまで感謝したことはない。なにせ、俺の患者は四つも隣の国まで逃げていたのだから。

「人類は、満月の夜や低気圧が近づくと性格が変わるというね」
「はん。何世代前の話だ。そんな不調、人類はとっくに克服してる。毎朝のジュース一杯でな」
「彼は旧人類でしょう」
「俺は五十歳上の人間なんかじゃ、旧人類とは呼ばないね」

 首のモーター音に無視を決め込んで見つめた暗い夜道の先には、ぼんやりと灯りが浮かんでいた。

 認証チップの共鳴が示すその場所には、木で組まれた移動式の家屋が湯気を立てている。どうやらそこは店のようで、店主らしき男は立って食事を振る舞っており、俺の患者はというと長椅子に座っていた。

「あーッ!!」

 思わず大声を出して俺は駆け寄る。
 患者は突然の来訪者に驚いて目を見開き、食べようとしていた何かを取り落した。それを見た店主は、何事かとカーテンを捲りこちらを覗き込んでいる。
 俺が滑り込むように長椅子に座ると、患者は申し訳なさそうにゆっくりと頭をさげた。短く切りそろえられた白髪の隙間からは地肌が覗いている。

「ああ、そんな……お医者さん。すみません、まさか、こんなところまで」
「いやそれは今はいい」
「え?」
「ヤタイ! そうだろ、これはヤタイだ。なんて効率的なんだろう。客寄せをしなくても自分で客の元にいけばいい!」

 そのフォルム、まさに文献で見たそのもの。こんな建築物が未だに残っていて、しかも機能しているなんて思いもしなかった。
 俺はヤタイのテーブル部分に指を滑らせる。少しささくれ立っていて、棘が刺さりそうな本物の木材の感触だった。余計なものは使わないシンプルな仕事。昔は滅菌スプレーがかかっていなかったはずだから、本来はもっと無骨な手触りなのかもしれない。

「そしてこの銀のケースで適温を保たせた食事はオデンというんだ。そうだろ?」
「え、ええ。そうでさ。アンタみたいな若いのがこれを知ってるとは驚きだ」

 呆気に取られた患者の代わりに店主が答える。
 確かに俺くらいの世代だと、旧文明の教育は削減されてしまった。後世に時代を繋ぐ気なんてさらさらない民衆に忘れられたそれらは、ただの浪漫と化していた。浪漫結構。夢を見なけりゃ人はとっくに止まっていたはずの進歩だ。
 特に過去のものからどういう経緯を経て現代のものが出来たのかという変化が俺は一番好きだった。その変化の中で不要とされたものが、何百年も経って突然必要になったりする。意味のわからない民間医療だって、その実馬鹿に出来ない裏付けがあったりもする。

「ミンは古代マニアでね。今一番欲しいものはビニールハウスさ」

 ヘケの言葉に、患者は苦笑して俺を見た。

「先進医療のお医者様なのに……不思議な人だ」
「新しいものはなんでもいい。同時に、古いものもなんでもいいんだよ。オデンはダイコンから食うのが礼儀、とかもな」

 今じゃ品種改良されて各家庭で簡単に一本単位で育てられるようになったダイコン━━正確にはダイコンとは別物でアカカブの一種だ━━を注文しながら俺は患者をちらと見た。
 居心地が悪そうに注文する彼は、先ほど食べのがしたものを頼み直している。箸は家でも使っているが、店で出されたのは初めてだ。何度も使われて塗装が剥げた風合いがなんとも格好いい。

「驚かせて悪かったな。奢らせてくれ。それは……見たことがないな」
「お医者様は見慣れないか。餅巾着。餅を油揚げで包んだものなんだ」
「なるほど。モチは熱で柔らかくなりやすい。広がって他の食材に接触してしまうから、それを防ぐアイデアなんだね。その上、スープを吸収しやすい襞のある素材だ。記憶しておこう。何かに役立つかもしれないからね」
「はーん。うまいこと考えたもんだな」

 四分割に割って冷ましたダイコンを、口の中で転がして更に冷ましながら患者を見る。餅巾着をぎこちなく箸で挟む利き手と逆の左手。うまく使えているとはいえ、やはりストレスがありそうだ。

「なあ。今月の患者ナンバー5321さん。アンタ、なんで急に義手をつけるのが嫌になったんだ?」
「ワンクッションもなくすまないね。この医者はデリカシーに致命的な欠陥があるんだ」
「いいんだ。いぬくん。すっぽかしてお医者様を困らせたのは、私だからね」
「一応ねずみということになっているんだ。作者の意向でね」
「いちいちうるさい補助デバイスだな。で、俺の診察に何か問題があったのか?」

 義手に何か不満や不安があったのだろうか。
 俺特製の義手は直接ヘケに制御させているので暴走の心配はまずない。装着感も軽く、動作はスムーズで、脳波から動作までの遅れはほとんどゼロに等しい。価格だって安いし、色も四十六色から選べる。それらは最初に説明しているし試験動画も見て貰っていた。

「ああ、いや。違うんだよ。ただ……ふと、このままがいいと思ってしまったんだ」

 患者は困った笑みを張り付けたまま、曲がった背中で俺を見上げる。悪戯を叱られる子供のように。俺は別に責めているわけじゃない。よく怒っているのかと聞かれるが、ヘケに脳波を確かめてもらえばわかることだ。
 ただ、何故なのかを知りたいだけのことが、どうにも人間相手だと難しい。

「それはどういう意味だ? そこまで鍛え上げた左手のためか?」
「ううん。それも惜しいのかもしれないけど」
「けど?」
「なんというか。これで足りているんだよ」

 気恥ずかしそうに笑った患者は、薬の苦さを嫌がる駄々っ子などではない。未来を諦めたまま終わりを受け入れるつもりでもないだろう。
 積み上げた努力を無駄にしたくないがために最良の道を逸れる人間というのは存在する。それが原因で、今まで我慢したからと自分に合わない仕事にしがみ付く、伴侶と離婚しない、なんてのはよくあることだ。だが、そういうわけでもないらしい。

「私は……仕事中の事故で利き手を失ってからこの手で生きてきたんだ。大変だったこともあったけど、なんというか……生きられちゃった」
「これ以上便利にならなくてもいいってのか?」
「うん。私は今の生活に満足しているんだ。このままがいい」

 妙に晴れやかな顔だった。今までも誰かにこのことを話してみたかったのかもしれない。
 そして患者がいいというのなら、医者の仕事はこれでお終いということだ。久方ぶりの長旅だったが、彼のおかげでこうしてヤタイにも出会えた。俺の方も満足している。

「そうか。それは不思議な考え方だが、俺は患者の意志を尊重するよ」
「患者は病や怪我で苦労しているという偏見を謝罪しないのがミンなんだ」
「いいんだ。くまくん。私はね、ある程度無関心な医者の方が患者に好かれると思うよ」
「無関心とはご挨拶だな。あと、ねずみ」

 俺は自分の手の代わりに義手を振って別れのあいさつにした。
 国境境まで来たところでヘケが俺の肩の周りをうろつき、俺は石造り風の大きな門にぶつかりそうになった。全自動浮遊球の鍵を捻って地面に降下させると、まんまるの月から遠ざかったようだった。
 とはいえ、もうすぐ日の出の頃なのでどちらにしろ満月とはお別れだ。空を見上げる俺にヘケはキュリリと首を回す。

「なんだよ。運転中に脳みそに話しかけんな」
「良かったのかい? 患者ナンバー5321は、感情の波形が異常に乱れていたと言ったはずだけど」
「嘘ってわけじゃないんだろう。今の腕のままで、あの爺さんはいいんだよ」
「なら、記憶を過去に跳躍させながら悲しんでいたのは何故なの?」
「さてな。きっと脳を解剖したってわかりゃしねえよ。ていうか、勝手に人の脳をスキャンするな」

 ふうん、と珍しく曖昧な相槌を打つねずみがデータを記録する横で、俺はそれを邪魔してやろうと口を開く。

「そういえば、大昔の話に、月の鼠というのがある。月日っていうのは無情に過ぎ行くもので……」
「記録中に話しかけるの、やめてよ。しかもオチから言わないでくれないかな」

 そんな繊細に作っちゃいないのに、人間ぶろうとする。それが何故かだって聞けば答えるだろうけれど、どうにも無粋な気がして俺は手慰みに義手を取り出した。
よく出来てるだけに、なるほど持ち主がいなきゃいらないものだった。

「あ、モチキンチャク。缶詰めにしたら保存が効くんじゃねえか」
「固くなるんじゃないかな。それに、すぐ食べられることが特徴の一つである缶詰めを温め直すなんて、ナンセンス」

 これだから、ねずみなんかに浪漫はわからない。