室内人類学

犬歯の短小化が起きていない=人類ではない

満月紀行

 空はもうもうとした煙のような雲に覆われ、湿気を帯びた風はもうすぐ雨が降りそうだと予告する。濃紺に灰を垂らした空には、脅かされない絶対さを伴って丸い月が大仰に座り込んでいた。
 この地域、コート一枚では随分冷える。もし俺が風邪など引いてかえれば職場は大爆笑だろう。俺の昔話ギャグで笑ったことなど無い癖に。

「今夜は満月か」
「そのようだね」

 独り言に返事をしたのは、ヘンリーバッヂ社のH-EKE0222型生活補助デバイスだ。
 Hは会社名、最初のEは電子思考回路を搭載していること、Kの部分は所有者が稼働停止を命じることが可能なキラストロ制御の搭載を表している。キラストロが入ってない電子思考回路なんて危なっかしくて使えないが、昔は当然なかったわけで。ちなみにEは出荷地域名で、数字は型番だ。
 俺は「彼」に親しみを込めて「ヘケ」と呼んでいる。どうしてそんな名前なのかというと、大昔のフィルムでねずみの鳴き声がそうだったからだ。まあ、他人から見るとヘケはねずみの形には見えないらしいので、俺の絵画の授業の点数なんて知れたものだった。

「また思考が過去に跳躍しているようだけど」
「俺の脳波をスキャンするのはやめろって言ってるだろ」

 ヘケはキュルルと音を鳴らして首を回転させる。人にすれば肩を竦める動作がそれに当たるが、どうにも不気味な彼の癖だ。俺の胸元についたM・Hの個体認証バッヂに頭突きをかまして、彼は黄色いレーザーを発射する瞳をこちらに向けた。

「それで、逃亡患者はこの先にいるのか」
「訂正するけど、さっきはスキャンしていないよ。君の行動は単純だから過去に学習したことを繋ぎ合わせれば簡単に推測できる」
「この先にいるのか!」
「会話を遮るのは良い行動とは言えないな。そして答えはイエス

 ヘケは尻尾を七色に光らせてみせた。俺は彼の長い耳をつついて、背の高い家屋がひしめき合う街の地図を空中に表示させる。
 患者とは得てして医者のいうことを聞かないものだが、ものわかりのよさそうなあの老人がまさか処方の日に来院しないとは思いもしなかった。
病院にかかる人間は━━人間に限らないが━━カルテ代わりに認証チップを埋め込む決まりがある。国の基準にここまで感謝したことはない。なにせ、俺の患者は四つも隣の国まで逃げていたのだから。

「人類は、満月の夜や低気圧が近づくと性格が変わるというね」
「はん。何世代前の話だ。そんな不調、人類はとっくに克服してる。毎朝のジュース一杯でな」
「彼は旧人類でしょう」
「俺は五十歳上の人間なんかじゃ、旧人類とは呼ばないね」

 首のモーター音に無視を決め込んで見つめた暗い夜道の先には、ぼんやりと灯りが浮かんでいた。

 認証チップの共鳴が示すその場所には、木で組まれた移動式の家屋が湯気を立てている。どうやらそこは店のようで、店主らしき男は立って食事を振る舞っており、俺の患者はというと長椅子に座っていた。

「あーッ!!」

 思わず大声を出して俺は駆け寄る。
 患者は突然の来訪者に驚いて目を見開き、食べようとしていた何かを取り落した。それを見た店主は、何事かとカーテンを捲りこちらを覗き込んでいる。
 俺が滑り込むように長椅子に座ると、患者は申し訳なさそうにゆっくりと頭をさげた。短く切りそろえられた白髪の隙間からは地肌が覗いている。

「ああ、そんな……お医者さん。すみません、まさか、こんなところまで」
「いやそれは今はいい」
「え?」
「ヤタイ! そうだろ、これはヤタイだ。なんて効率的なんだろう。客寄せをしなくても自分で客の元にいけばいい!」

 そのフォルム、まさに文献で見たそのもの。こんな建築物が未だに残っていて、しかも機能しているなんて思いもしなかった。
 俺はヤタイのテーブル部分に指を滑らせる。少しささくれ立っていて、棘が刺さりそうな本物の木材の感触だった。余計なものは使わないシンプルな仕事。昔は滅菌スプレーがかかっていなかったはずだから、本来はもっと無骨な手触りなのかもしれない。

「そしてこの銀のケースで適温を保たせた食事はオデンというんだ。そうだろ?」
「え、ええ。そうでさ。アンタみたいな若いのがこれを知ってるとは驚きだ」

 呆気に取られた患者の代わりに店主が答える。
 確かに俺くらいの世代だと、旧文明の教育は削減されてしまった。後世に時代を繋ぐ気なんてさらさらない民衆に忘れられたそれらは、ただの浪漫と化していた。浪漫結構。夢を見なけりゃ人はとっくに止まっていたはずの進歩だ。
 特に過去のものからどういう経緯を経て現代のものが出来たのかという変化が俺は一番好きだった。その変化の中で不要とされたものが、何百年も経って突然必要になったりする。意味のわからない民間医療だって、その実馬鹿に出来ない裏付けがあったりもする。

「ミンは古代マニアでね。今一番欲しいものはビニールハウスさ」

 ヘケの言葉に、患者は苦笑して俺を見た。

「先進医療のお医者様なのに……不思議な人だ」
「新しいものはなんでもいい。同時に、古いものもなんでもいいんだよ。オデンはダイコンから食うのが礼儀、とかもな」

 今じゃ品種改良されて各家庭で簡単に一本単位で育てられるようになったダイコン━━正確にはダイコンとは別物でアカカブの一種だ━━を注文しながら俺は患者をちらと見た。
 居心地が悪そうに注文する彼は、先ほど食べのがしたものを頼み直している。箸は家でも使っているが、店で出されたのは初めてだ。何度も使われて塗装が剥げた風合いがなんとも格好いい。

「驚かせて悪かったな。奢らせてくれ。それは……見たことがないな」
「お医者様は見慣れないか。餅巾着。餅を油揚げで包んだものなんだ」
「なるほど。モチは熱で柔らかくなりやすい。広がって他の食材に接触してしまうから、それを防ぐアイデアなんだね。その上、スープを吸収しやすい襞のある素材だ。記憶しておこう。何かに役立つかもしれないからね」
「はーん。うまいこと考えたもんだな」

 四分割に割って冷ましたダイコンを、口の中で転がして更に冷ましながら患者を見る。餅巾着をぎこちなく箸で挟む利き手と逆の左手。うまく使えているとはいえ、やはりストレスがありそうだ。

「なあ。今月の患者ナンバー5321さん。アンタ、なんで急に義手をつけるのが嫌になったんだ?」
「ワンクッションもなくすまないね。この医者はデリカシーに致命的な欠陥があるんだ」
「いいんだ。いぬくん。すっぽかしてお医者様を困らせたのは、私だからね」
「一応ねずみということになっているんだ。作者の意向でね」
「いちいちうるさい補助デバイスだな。で、俺の診察に何か問題があったのか?」

 義手に何か不満や不安があったのだろうか。
 俺特製の義手は直接ヘケに制御させているので暴走の心配はまずない。装着感も軽く、動作はスムーズで、脳波から動作までの遅れはほとんどゼロに等しい。価格だって安いし、色も四十六色から選べる。それらは最初に説明しているし試験動画も見て貰っていた。

「ああ、いや。違うんだよ。ただ……ふと、このままがいいと思ってしまったんだ」

 患者は困った笑みを張り付けたまま、曲がった背中で俺を見上げる。悪戯を叱られる子供のように。俺は別に責めているわけじゃない。よく怒っているのかと聞かれるが、ヘケに脳波を確かめてもらえばわかることだ。
 ただ、何故なのかを知りたいだけのことが、どうにも人間相手だと難しい。

「それはどういう意味だ? そこまで鍛え上げた左手のためか?」
「ううん。それも惜しいのかもしれないけど」
「けど?」
「なんというか。これで足りているんだよ」

 気恥ずかしそうに笑った患者は、薬の苦さを嫌がる駄々っ子などではない。未来を諦めたまま終わりを受け入れるつもりでもないだろう。
 積み上げた努力を無駄にしたくないがために最良の道を逸れる人間というのは存在する。それが原因で、今まで我慢したからと自分に合わない仕事にしがみ付く、伴侶と離婚しない、なんてのはよくあることだ。だが、そういうわけでもないらしい。

「私は……仕事中の事故で利き手を失ってからこの手で生きてきたんだ。大変だったこともあったけど、なんというか……生きられちゃった」
「これ以上便利にならなくてもいいってのか?」
「うん。私は今の生活に満足しているんだ。このままがいい」

 妙に晴れやかな顔だった。今までも誰かにこのことを話してみたかったのかもしれない。
 そして患者がいいというのなら、医者の仕事はこれでお終いということだ。久方ぶりの長旅だったが、彼のおかげでこうしてヤタイにも出会えた。俺の方も満足している。

「そうか。それは不思議な考え方だが、俺は患者の意志を尊重するよ」
「患者は病や怪我で苦労しているという偏見を謝罪しないのがミンなんだ」
「いいんだ。くまくん。私はね、ある程度無関心な医者の方が患者に好かれると思うよ」
「無関心とはご挨拶だな。あと、ねずみ」

 俺は自分の手の代わりに義手を振って別れのあいさつにした。
 国境境まで来たところでヘケが俺の肩の周りをうろつき、俺は石造り風の大きな門にぶつかりそうになった。全自動浮遊球の鍵を捻って地面に降下させると、まんまるの月から遠ざかったようだった。
 とはいえ、もうすぐ日の出の頃なのでどちらにしろ満月とはお別れだ。空を見上げる俺にヘケはキュリリと首を回す。

「なんだよ。運転中に脳みそに話しかけんな」
「良かったのかい? 患者ナンバー5321は、感情の波形が異常に乱れていたと言ったはずだけど」
「嘘ってわけじゃないんだろう。今の腕のままで、あの爺さんはいいんだよ」
「なら、記憶を過去に跳躍させながら悲しんでいたのは何故なの?」
「さてな。きっと脳を解剖したってわかりゃしねえよ。ていうか、勝手に人の脳をスキャンするな」

 ふうん、と珍しく曖昧な相槌を打つねずみがデータを記録する横で、俺はそれを邪魔してやろうと口を開く。

「そういえば、大昔の話に、月の鼠というのがある。月日っていうのは無情に過ぎ行くもので……」
「記録中に話しかけるの、やめてよ。しかもオチから言わないでくれないかな」

 そんな繊細に作っちゃいないのに、人間ぶろうとする。それが何故かだって聞けば答えるだろうけれど、どうにも無粋な気がして俺は手慰みに義手を取り出した。
よく出来てるだけに、なるほど持ち主がいなきゃいらないものだった。

「あ、モチキンチャク。缶詰めにしたら保存が効くんじゃねえか」
「固くなるんじゃないかな。それに、すぐ食べられることが特徴の一つである缶詰めを温め直すなんて、ナンセンス」

 これだから、ねずみなんかに浪漫はわからない。